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2005/05/13

<在日社会>南宋文人画最後の大家・許百練の初期作品が日本に

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          「母に贈られた許百錬氏の絵は宝物」と語る望月理さん

 「韓国南宋文人画の最後の大家」といわれる許白錬(号・毅齋)が、1910年代末から20年代初めにかけて日本滞在中に描いた絵を、鎌倉在住の望月理(74)さんが所有していることがわかった。望月さんの連絡を受けた毅齋ミュージアム(光州市)の許タルチェ理事長(許氏の孫)が、 「歴史的意味があり、ぜひ現物を見たい」と要請、望月さんも関係者の来日を心待ちにしている。

 許白錬の家は代々絵で名高い家系で知られる。1891年、珍島で生まれた許は11歳から絵の勉強に励んでいたが、「絵を描いているだけでは貧しい生活しか出来ないのでは」と考え、1905年から8年まで光新学校に通い、1912年春に日本の京都法政大学(その翌年、財団法人立命館となる)に進み、13年5月に明治大学に進んだ。しかし、絵への関心を捨てることが出来ず、水墨画の大家といわれる小室翠雲に師事し絵を学んだ。

 1915年夏、許は新潟へ行き、旅館に滞在して絵を描き、やがて周囲に人が集まり始めた。翌年には大勢の知人の尽力で初めての個展を、また小柳一蔵氏の尽力で2度目の個展を開くなど、絵の実力とともに現地で人望を集めていたことがうかがい知れる。

 1918年、今度は山梨県甲府市内の旅館に滞在。ここでも多数の人たちが絵を求めて集まるようになった。また甲府を拠点に日本各地を旅行している。

 おそらく甲府での許は自らの力に自信を深め、、絵の水準も一層高まったものと思われる。この頃、許が甲府から南に旅して滞在したのが望月さんの祖父であった。

 許氏は滞在中、7枚の絵と額1枚を望月さんの祖父に残し、1918年に病気の父親を見舞うため韓国に戻った。

 その後1923年5月に再度来日し、白上祐吉という人の協力で千葉で個展を開くが、同年9月1日の関東大震災と朝鮮人虐殺事件を経験し、帰国した。28年には3度目の来日を果たし、熊本、東京、松江などを訪ねて生活した後、30年に帰国した。計3度の日本生活であった。

 絵は旅館が1936年火事にあったとき、一部が水を浴びてシミが付いたものの、きちんと保存されていた。祖父から韓国人画家の描いた貴重な作品と聞かされていた望月さんは、父から受け継いで所蔵。昨年韓国旅行した際に、宿泊先のホテルで画家の名前を伝えたところ、光州に美術館があることがわかり、連絡を取った。
 
 許ダルチェ理事長は、「日本でどういう生活をしていたか、エピソードを聞きたいと話している。近日中に許理事長が日本を訪問する予定だ。

◆当時の交流に関心・望月理さんの話◆

 韓国で有名な大家とは知らなかったので感慨深い。絵の才能を評価した日本の人との交流が当時行われていたことはとても興味深いし、祖父らとどんな会話をしたのか知りたい。当時は大正デモクラシーの時代で民主的な気風があったから、韓国の人とも自由に交流していたのだろう。

 19歳でまだ結婚前だった私の母に描いてくれたぼたんの花の絵「長春之図」など、私たち家族にとっても貴重な絵画が残された。ただ「呉門髣髴楼」と書かれた額は処分してしまったという。文字もすばらしかったので残念だ。

 絵については、お孫さんの館長と早くお会いし相談したい。美術館にもぜひ行ってみたい。

 ◆深く澄んだ東洋思想◆

 「毅齋」という号の「毅」は、「力強い、たくましい、堂々としている」という意味であり、「齋」は一般的に号に用いられる言葉として使われている。毅齋という号は、許百錬に漢学を教えていた茂亭鄭萬朝師匠が付けたという。世俗的成功とは関係なく渓谷に隠居していた。そのため、謙虚で清貧な思想家、実践的な啓蒙家としての人生を送った。空と土、そして人々を愛する「三愛思想」を実践した。

 毅齋は、常に「韓国南宋文人画の最後の大家」と言われてきた。金正喜などの昔の文人から脈々と続いてきた南宋画の伝統、長期旅行から得た幅広い経験と、東洋の古典を基礎として早くから芸術家としての一門を築いてきた。

 闊達でありながら力ほとばしる筆墨と、深く澄んだ東洋思想、柔らかい南方の趣と詩的な味わい、これら全てが毅齋の作品の中には込められている。