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2006/12/15

<在日社会>故金一氏の自伝韓日同時出版・パッチギ(頭突き)で両国結ぶ

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    「原爆頭突き」をイメージしたガウンとチャンピオンベルト。後ろは金一さんの遺影

 1960~70年代に韓日両国で活躍し、10月26日に亡くなった往年の名プロレスラー、金一さん(キム・イル、日本名・大木金太郎/おおききんたろう)の追悼式と自伝の出版記念会が13日、都内のホテルで開かれた。金一さんはスポーツで韓日を結ぶ先駆けとなった存在で、約400人の参列者はその死を悼んだ。

 今回出版された「自伝 大木金太郎 伝説のパッチギ王」(講談社、1500円)は、韓国の日刊スポーツ紙に今年4月10日から9月29日まで100回にわたって連載された「金一 私の生きざま、私の挑戦」を翻訳したもの。

 金一さんは自伝の出版を楽しみにしていたが、完成を待たず亡くなったため、出版記念会と追悼式を兼ねて行うことになったものだ。韓日で同時出版となり、一足早く11月末に韓国で出版記念会が行われている。

 追悼式の前には記者会見が行われた。

 同じ力道山門下生だったアントニオ猪木さんは、「ブラジルから日本に渡ってきて、力道山先生のところに入門した初日、大木さんにお会いして大きい人だなと思ったのが第一印象だ。『君はブラジルから来て、私は韓国から来た。ともにがんばろう』と言ってもらったのを今でもよく覚えている。とてもいい先輩であり仲間だった。どうか安らかに眠ってほしい」と語った。

 力道山夫人の田中敬子さんは、「大木さんは根がやさしく、馬鹿正直といってもいいぐらいの人だった」と話した。

 野球評論家の張本勲さんは、「生前、同じ民族の同志として親しくさせてもらっていた。とにかく、すごい男がいるなと感じていた。1960年ごろだったか一緒に食事をしたが、2人で30人前ぐらい食べたのを今でもよく覚えている」と故人をしのんだ。

 追悼式では羅鍾一・駐日韓国大使があいさつを行い、「むかし、金一先生の試合を見に行ったことがある。韓国では伝説的な存在だった。韓日両国が国交のない時代に、スポーツを通して韓日両国の距離を縮めると同時に、韓国のスポーツ選手が日本で活躍する礎を築いた人でもあった」と、業績を評価した。

 金一さんは力道山に憧れて1956年、漁船を使い密入国で日本に渡る。逮捕されるも、拘置所から力道山に手紙を出して身元引受人を頼み、釈放されて弟子入り。

 金さんは、「覚悟して玄界灘を越えてきたのだから、どんなつらいことがあっても我慢しろ」との力道山の言葉を胸に刻んだ。ある日、ガラスの灰皿で頭をたたかれたが、「痛かったけど、痛いって顔はできなかった」と平然としていたら、力道山から「これからは頭突きだ」と言われ、「原爆頭突き」を生み出すことになった。
 
 1963年に世界ヘビー級チャンピオンになるなど、アントニオ猪木、ジャイアント馬場と並ぶ三羽がらすとして人気を博す。また、韓国出身であることを公言していた。ファンから人気を集める一方で、「朝鮮人帰れ」「にんにく臭いぞ」などの心無い野次が飛んでくることも、多々あったという。その野次に対する怒りを逆に闘志に変え、金一さんは相手のレスラーに向かっていった。その姿に在日社会も熱い声援を送った。

 63年12月に師匠の力道山が亡くなった後、65年に韓国に戻り、韓国プロレス界の発展に尽くした。「パッチギ(頭突き)キング」の愛称で親しまれた。

 経済の近代化を目指す韓国民の希望の星であり、プロレス中継がある日には、街頭テレビの前やテレビを置いた喫茶店が人々であふれたという。

 金一さんが頭突きで外国人レスラーを倒す姿に、人々は興奮し、「パッチギ、パッチギ」と叫んだ。引退までリングで放ったパッチギは3万発になる。金さんは引退後、日本で事業を展開したが失敗。韓国に再び戻った後は、頭突きの後遺症と糖尿病などで闘病生活を送っていた。