植民地解放から今年で61周年を迎えた。韓日スポーツ交流に多大な貢献をして、先日韓国の勲一等体育勲章「青龍章」を受章した金英宰・在日韓国体育会中央顧問に、祖国解放、スポーツ交流の思い出などについて話を聞いた。
金英宰氏の生家はレコード会社と演劇団を経営する事業家の一族。幼いころは明洞聖堂前の幼稚園に通った。
「近所でも評判のガキ大将で、狭い路地でボールを蹴って遊んでいた。小学校に入ってからは、韓国語を使うと怒られたことを今も鮮明に覚えている」解放を迎えたときは小学校4年生。「自分の国が出来たことに希望を感じた」という。
その後、姉は建国の教師として、金氏は建国の高校生として、勉学に励む一方、サッカー漬けの毎日を過ごした。
体育会との関わりは1955年10月、第36回韓国国体に在日同胞サッカー選手団の一員として出場することが決まったことに始まる。
韓日国交回復前の時代で、国体参加のようなはっきりした目的がないと、再入国許可が取れない時代であった。
「韓国戦争が終わって間もない時期。ソウルにあった自宅は焼け野原になっていた。荒涼たる街並みに胸が締め付けられる思いだった」と話す。
体育会が誕生したのは金英宰氏が初めて参加する2年前の1953年5月5日。その年の10月に韓国国体に参加するため、在日選手団が母国の土を踏んだのである。
日本の入管の再入国許可申請は困難を極めたが、「不幸な二国間関係を修復するには韓国と日本の若者がスポーツを通じて交流することが一番いい方法ではないか」との訴えを入管側が聞き入れ、道が開けたという。
「韓国はすべてが疲弊していたが、サッカーだけは強く、在日選手団も歯が立たなかった。また日本では経験したことのない満員の観客に圧倒された。サッカーに対する韓国民の誇り、愛情を強く感じた」
57年6月には在日全コリアン対日本の全関東、全関西選抜との親善試合があった。在日全コリアン選抜軍は民団系、総連系の学生たちが同じ同胞としてスポーツマンシップのもとに集い、未来の南北交流を夢見ながら、日本チームと闘った。この時のメンバーがいまでも在日最強チームといわれている。金英宰氏ももちろんメンバーの一人だった。
選手生活を引退すると、今度は国体に選手を派遣する立場として活動する。同時に再入国許可で苦労した経験をもとに、旅行業を始める。
「当時、再入国許可を取るのは手続きが複雑で本当に大変だった。何度も韓国に行く中で方法に精通したし、将来韓日が国交正常化したら、人の往来が活発になると聞いて旅行業を始めることにした」
韓国国体には選手、役員として昨年まで50年間休まず参加。一方、体育会会長時代には、98年フランスW杯で初めて韓日共同応援団を企画・実現した。
「2002年の韓日W杯共催が決まっていたし、何とかスポーツを通じた韓日交流を促進したいと考えた。スポーツを愛する者として韓日の対立を解消する一助を果たしたかった」
「いまは民族差別も少なくなったし、韓流ブームもある。在日にとっては住みやすい世界になった。地域社会で日本人との共生を実現しながら、コリアンとしての自覚を忘れずに生きてほしい。自分も最後までスポーツ交流に貢献したい。サッカーは世界を結ぶ」