在日2世のオペラ歌手、田月仙さんが書いた初の著書「海峡のアリア」が、小学館から出版された。帰還事業で北朝鮮に渡った後、政治犯収容所に入れられた兄たち、息子たちの身の上を案じながら亡くなった母、韓半島と日本との交流に尽くした月仙さんの半生などが書かれ、小学館ノンフィクション大賞優秀賞(大賞はなし)を受賞した話題作だ。田月仙さんに話を聞いた。
1957年、東京・立川市に生まれた。「満月の光が湖を照らし、そこに水仙の花が咲いていた夢を見た」母の金甲仙さんが“月仙”と名付けた。1世の両親はリヤカーで廃品回収業を営みながら、子どもたちには民族教育を身に付けさせようと努力した。また、ピアノや歌を学び、多くの舞台に出るようになった。
音楽の道に進もうと思ったが、当時、朝鮮学校卒は音大の受験資格が認められなかった。
「この国で私は、試験さえ受けられないのかと思うと、失望感と孤独にうちひしがれた」
周囲の協力を得ながら唯一受験が認められた桐朋学園に見事合格。チョン・ウォルソンという名前で入学式に出ると、みなが振り向いたという。83年に声楽家としてデビューする。
「西洋音楽で学んだ発声法を民族の歌に取り込むことによって、幅広い表現が可能になった。また幼いときから民族舞踊などで表現力を身に付けてきたことが、オペラの舞台でも役に立った」
オペラ歌手としての実績を積み重ね、85年には平壌公演が実現し、故金日成首席の前で歌った。また94年にはソウル定都600年記念オペラ「カルメン」で主演を演じるなど、初の南北コリア公演を実現している。
この平壌公演の時に、田さんは4人の異父兄のうち3人(1人は死亡)との面会を実現する。
田さんの実父と結婚する前、母はやはり在日の男性と結婚・離婚を経験していた。その男性との間に出来た4人の息子が、帰還事業により十代で北朝鮮に帰っていた。しかし、「日本から送り込まれた韓国のスパイ」という容疑をかけられ、1969年から9年間、強制収容所に入れられ、飢えと寒さと拷問に苦しんだのだった。
次男は70年に収容所で死亡。母は息子たちを心配しつつも面会がかなわず、やっと80年に平壌に渡り、20年振りの親子対面を果たす。そして85年、田さんも兄たちと初めて会うことになる。
「北への帰国者は約10万人いるが、私たち家族だけでなく多くの人が苦しみを抱えてきた。兄たちと会えたことは奇跡といっていいかもしれない。その後、上の2人は亡くなり、4男の兄は音信不通となった。母は病にふせっていたが、2005年2月に78歳で亡くなった。母は南北分断が悪い。(北のことは)悔しいと言って死んでいった。母や兄がこの地上に存在したことを書き残したかった」
家族へのレクイエム(鎮魂歌)として、2005年末から書き始め、数カ月で完成、小学館ノンフィクション大賞に応募し、優秀賞に輝いた。大賞にしたかったと話す選考委員もいたほどだ。
「思いを正直につづったことが評価されたと思う。受賞を聞いたときは思わず涙が出た」
著書にはまた、98年に東京都の親善大使に選ばれ、ソウル公演で日本の歌をうたう予定が許可されなかったこと、韓日共催W杯が開かれた2002年に韓日首脳の前で歌ったこと、南北統一を願う在米韓国人がつくった「高麗山河わが愛」を発掘し、よみがえらせた話など、韓日交流、南北統一を願っての活動も記されている。
「在日コリアンはみな歴史に翻弄されてきた。海峡に引き裂かれた家族の数奇な運命を、本書から感じ取ってほしい。そして在日コリアンへの理解を深めてもらえれば」と、田さんは最後に強調した。