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2008/09/12

<在日社会>在日3世が見た在サハリン同胞

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    在サハリン同胞の若者たちが韓国伝統舞踊を披露

 在日の弁護士、市民団体のメンバーがこのほど、ロシアのサハリンを訪問し、在サハリン同胞と交流を深めた。参加者の一人、尹徹秀(ユン・チョルス、41)弁護士に報告を寄せてもらった。

 サハリン残留コリアンの問題に30年以上深く関わっている高木健一弁護士に誘われ、私が所属する事務所の所長である李宇海弁護士(当時在日コリアン弁護士協会会長)と一緒に、7月の終わりにサハリンを初めて訪問することになった。韓国のNGO団体主催のシンポジウムに参加することが目的だ。

 稚内から大きな船に乗って5時間半でコルサコフという港に到着する。われわれをコルサコフの港で出迎えてくれたのは、サハリン韓人老人会会長の全相周さんという75歳のシャキシャキした方である。全会長は、植民地時代に朝鮮半島から日本を経てサハリンに渡り、この地で解放を迎えたが、その後サハリンがロシアの領土になるのに伴いロシア国籍になり、スターリンの統治もペレストロイカも経験している。韓国語とロシア語はもちろんのこと日本語も堪能で現在もサハリンでロシア人を雇って会社を経営している。

 解放直後当時サハリン(樺太)にいた日本人約40万人は、米ソ協定と日ソ共同宣言により日本に帰国することが許され、そのほとんどが帰国した。しかし植民地時代に日本政府の政策でサハリンに移住し、あるいは強制的に徴用された朝鮮人は、朝鮮半島の混乱や韓国とソ連の間に国交がなかったことから、この地にとどまることを強制され、祖国や日本に戻ることが許されなかった。港から次々と引き上げていく日本人をこの丘からじっと眺めるほかなかったのである。その人たちや子孫が現在サハリンに約3万人在住し、サハリンのロシア人の5%を占めている。

 コルサコフから車で30分ほどしてサハリンの州都であるユジノサハリンスク(旧豊原)に到着する。われわれが宿泊するのは、日本政府がサハリンの韓人のために建てた韓人文化センター(歌手のキム・ヨンジャさんが在サハリン同胞のため、歌謡ショーを行った会場)という立派な建物の中にある宿泊施設である。この建物の前にある銅像に高木健一先生やサハリン出身の芥川賞作家李恢成氏ら、サハリン韓人の帰国事業に寄与した人たちの名前が刻まれていた。

 この韓人文化センターでは韓人が主に出入りし、我々在日と同じように、文化教室として韓国の伝統舞踊を習ったり、韓国語を習ったりしている。サハリンの韓人も3世となると、在日と同じように韓国語は普通話せない。サハリン韓人は、名前は金とか李とか名乗り、コリアンの姓をみんな使っているようだ。在日の場合、顔を含めた外見が日本人とほとんど変わらず、生活の術として日本名を使い、日本人のように生活していくことも可能であるが、ここでは、コリアンと外見が明らかに異なるロシア人に囲まれており、ロシア人の姓をコリアンが名乗っても意味がないであろう。もっとも韓人の3世等の若い世代の子は金ターニャとかの名前で、姓はコリアン式、名はロシア式にしている子が多いようだ。

 コルサコフの港でみかけたあるロシア人の女の子は、白人でどう見てもコリアンに見えないのだけれども、姓は金であった。お父さんが韓人で、お母さんがロシア人だという。

 韓国政府の経済援助でこれまでサハリン在住韓人の約2500名が韓国への永住帰国を果たしているが、帰国者のほとんどが高齢であり、医療、介護に関する不安が大きく、またサハリンに子供や孫がいる者にとっては韓国に永住帰国することで新たな離散が生まれるという問題が生じている。経済問題で自由往来できない人たちへの支援が必要だ。

 最後に、コリアンはどこでもたくましく生きていることを今度のサハリン訪問で強く感じたこと、そしてサハリン韓人の若者たちがルーツや言語、文化を求め、学ぶ姿にとても共感したことを強調しておきたい。