◆出席者◆
商社マン
李 明 浩 氏(リ・ミョンホ、44)
弁護士
尹 徹 秀 氏(ユン・チョルス、41)
ファッションデザイナー
韓 安 順 氏(ハン・アンスン、32)
キャリアアウンセラー
金 里 砂 氏(キム・リサ、30)
司会 在日社会も1世が少なくなり、2世、そして3、4世の時代になってきた。在日社会が今後どう変化していくか。今回は日本社会でキャリアを通して自分を磨いている人たちに参加してもらった。在日の次世代に未来を指し示せるよう語りあってもらえればと思う。まず自己紹介からお願いしたい。
李明浩 父が1世、母が2世なので、私は2・5世。三菱商事で自動車関連のビジネスをしている。入社したのは90年だが、在日がまだ日本の企業に入りにくかったころだ。その後、在日の後輩も入社し、在日の学生が就職相談に来るようにもなった。
入社のきっかけは、米国留学時代、母親が送ってくれた新聞記事。三菱商事の取締役に韓国人が初めて就任したという驚きのものだった。崔文浩さんという方で、一橋大学から、サムスン物産を経て、三菱商事に入社され、取締役にまでなった。その記事を見て、韓国人にもチャンスがある、こういう企業に勤めたいと思い、人事部に思いを込めて手紙を書いたところ、一時帰国の際に面接をしましょうということになり、面接を受けて入社が決まった。
私は、自分が韓国人として日本でどのように生きて行ったらいいのか悩んだ時期があったが、大学生のころ、在日の文化学者である金両基さんの「韓国人か日本人か」(サイマル出版会)という本に出会った。「日本人でもなく韓国人でもなく、在日という新たな立場で生きたら」と書いてあるのを読んで、日本も韓国も第三者的に客観的に見れるのは「在日」だけではないかと自分なりに気付いた。そして総合商社ならば両国をビジネス上も第三者的に見れるかなと考えた。
入社したら、日本名で働いている在日もいることを知った。いまはグローバル化に対応するため、商社もさまざまな人種や人材を雇っている。私のケースは一例に過ぎないが、今は実力の時代。実力ある在日の後輩たちが今後も日本で生きて行く中、日本企業にもどんどんチャレンジしてもらいたい。
韓安順 在日が多く住む大阪・生野に生まれた。民族学校を卒業後、技術を身に付ければ仕事には困らないだろうと考え、小さいときから雑貨や服を作るのが好きだったこともあって、ファッション関係の専門学校に進んだ。デザイナーになろうという強い気持ちがあったわけではなかった。海外旅行が好きで、世界をより深く知るために留学しようと思い立ち、留学資金を貯めようと服を作ったら評判となり、そのままデザイナーになった。
卒業してすぐ自らのブランドを立ち上げ、「大阪コレクション 新人ジョイント」に出展したら、マスコミがたくさん取材に来るのでびっくりした。ほとんどが「在日3世の女性デザイナーがデビュー」という、ファッションよりも在日ということが多く取り上げられた記事だったが、取り上げてくれるならラッキーという感じだった。
「在日の苦労は」とよく聞かれたが、特に無かったというと「世代が変わったんですね」と言われた。チョゴリの生地を使った服をたまたま作ったら、「チョゴリのデザインをもとに」という記事になった。韓日2つの文化を融合した色彩感覚と言われたりもするが、自分で意識したことはない。
金里砂 在日3世になる。愛知の朝鮮学校を卒業後、日本の大学へ進学して早く日本社会に溶け込もうと考えていた。父が朝鮮総連の専従活動家で家が金銭的に苦労していたのを見ていたし、友人が日本の学校に転校したこともあって、在日社会だけで生きていてはだめだと感じていたためだ。ところが、実は親が1年早く朝鮮学校に入学させていたため、卒業時は17歳で大学受験の資格がなかった。中学生のときから数種類のアルバイトを経験し300万円の貯金があったので、その資金を元手に米国に留学した。2年分しか留学資金がなかったので、勉学に励み、4年制の大学から奨学金をもらって無事に卒業することができた。
米国で就職しようと考えたが、朝鮮籍なので労働ビザが下りず、結局日本に戻ることになった。そしてベンチャー・リンクに入社し、現在に至っている。ベンチャー・リンクでは、海外マーケティングの調査などの業務を担当している。またキャリアカウンセラーとして、学生たちのカウンセリングなども行っている。
尹徹秀 私も在日3世になる。私は大学まで日本の学校に通い、ずっと通名で生活していた。両親は岡山でコンピューター関係の小さな会社を営んでいる。小さいときに自分の家が普通の日本の家庭とは違う、「チョーセンジン」と言われる「不運」な存在だと知った。在日であることは隠し続け、友人にも言えないもどかしさを大学のころまで感じてきた。
大学時代には、この悩みを解消するために早く帰化したいと思っていた。しかし、帰化してもルーツは隠せないと思った。大学卒業後、徐々に本名を使うようになっていった。
本名を隠して生きざるを得ないことが苦しかったし、法律の勉強が好きだったからというのではなく、自分が弁護士に向いているというのでもなく、一言で言うと、在日であることの悔しさから弁護士になろうと思った。韓国語の勉強、そして一度は祖国で生活したいと考え、2006年10月に韓国に留学し、今年6月まで1年9カ月の間韓国にいた。いまは東京永田町法律事務所に勤務しており、弁護士生活4年目になる。
司会 在日としての自我形成はどう培ってきたのか。またキャリアを通じてどう自己形成し、社会に貢献してきたのか聞きたい。
韓 民族学校に通ったので、アイデンティティーで悩んだことはない。「Han ahn soon」のブランド自体はすぐに作ることができたが、その後が大変だった。ブランドを立ち上げて大阪コレクションで評判となった後、大手アパレルメーカーとデザイナー契約を結んだが、個人で一点ずつ作っているときと、会社に所属して服を量産するのとはまったく違っていた。会社はセレクトショップが本体だったが、最初は服が売れなくて、市場について必死に勉強した。徐々に服が売れるようになり物づくりが楽しくなった。最近は新会社に移り、新たなメンバーでチームを構成し、新しい展開をしたいと考えている。
20代から30代の女性が一番のターゲットで、ドレッシーで少し力強さがある服や、セクシーさを強調したドレスなども作っている。2007年のミスユニバースで優勝した森理世さんなども着てくれており、芸能人にもファンは多い。ハローキティなど、キャラクターとのコラボレートをしたり、婦人服のみにとどまらず、2006年からは子供服も作っている。将来はパリコレクションに出ることを目指している。ファッション業界は競争が激しいが、負けず嫌いで、「思い立ったらすぐに行動する」ポジティブな性格なので、ここまで出来たと思う。
李 中学まで民族学校に通ったのでアイデンティティーで悩んだことはない。両親は朝鮮総連に所属していたころもあったが、紆余曲折の末、私も朝鮮中学を出てから日本の高校に通うことになった。そしたら日本の歴史は知らないし、漢文も読めない。当初は高校生活でのギャップ、葛藤があったが、次第に解消されていった。
三菱商事に入社後は、在日韓国人なのだから日本人に負けないように働かないといけないという強迫観念が無意識にあったかもしれず、人一倍働くように自分を追い込んでいったが、それが逆にパワーになったと思う。典型的なモーレツサラリーマンだったが、そうしないと生き残れないと思っていた。しかし在日であることを意識していたのは自分だけで、商社は世界が相手のビジネスなので、職場の同僚の意識は「李さんは韓国人だったよね?」程度であった。逆に韓国とのビジネスで、自分が韓国企業や韓国人ビジネスマンの実態を知らないことにギャップを感じることが多かった。いまは部下も5、6人おり、中南米担当なので、中南米のことはまかせろという専門性を大切にしている。
司会 96年にペルー人質事件があったが。
李 当時、ペルーの青木・日本大使や李・韓国大使に可愛がって頂いていたこともあり、人質になった当初、青木大使が私のところに来て、「もし何かあったら、邦人保護の延長で日本企業で働いている君のことは責任を持つ」と言ってくれた。また韓国大使は、「君は韓国人だから韓国政府が何とかするから心配するな」と言ってくれた。私は事件が起きたとき、在日の自分は韓日どちらに頼ればいいのかという不安があったが、有難い出来事であった。私は運よく2週間弱で解放されたが、韓国メディアの取材がすごかった。韓国語で答えただけで、「在日なのに韓国語ができる」「在日なのに民族意識がある。親の教育がよかった」と好意的な記事になったが、当時の在日への韓国の認識を窺わせるものだった。
最近、「国籍にとらわれず自由に自然体で生きたい」という若い人が増えている。そのこと自体は賛成で否定はしないのだが、人質事件のときには自らの国籍、パスポートを強く意識した。日本に住んでいる間は、国籍は手続上のものに近く、日常生活では殆ど影響を受けない。しかし、世界が混乱する中、同じ町に住む知人同士でさえ、極端な有事が発生すれば、国籍の違いだけで敵対することもある。国籍とは本来もっと重みのあるものであり、これから国際舞台に出て行く在日は、国内では自由な「在日」でもいいかも知れないが、「国籍」の持つ意味と重みに無頓着すぎてはいけない。
尹 弁護士の仕事は、まず依頼者から仕事の依頼を受けることが大切で、私の所属する東京永田町法律事務所には所属する弁護士8人中、在日が、所長の李宇海先生を含めて10月には3人になるので、日本企業から依頼が来なくなるのではないかと、冗談半分、本気半分で心配することもある。大阪のある在日弁護士で医者と弁護士の資格を両方持っていて、医療関係に詳しいのを生かして活躍している弁護士がいる。このレベルになると在日だからといって、仕事上不利になることはない。私は韓国の家族法を学んでいるし、韓国語も多少できるので、その特長を活用して韓国人、韓国企業、在日に対応できるが、もちろん日本で弁護士活動をする以上、依頼者の多くは日本人・日本の会社であり、この人たちに受け入れてもらわなければならない。
30年前までは韓国・朝鮮籍のままでは弁護士になることは出来なかった。故・金敬得弁護士が韓国籍で司法研修所の入所を認めるべきだという問題提起をして、以後、日本国籍でなくても弁護士になれる道が開けた。この30年の間に80人以上の在日コリアンが弁護士になった。在日弁護士有志で作る在日コリアン弁護士協会には、私を含め約50人が所属している。裁判官と検事は公権力を行使するので外国籍ではなれない。最近、日本国籍を取得して金某という本名で裁判官になった在日がいると聞いた。
司会 金里砂さんはキャリアカウンセラーという資格も持っているが。
金 キャリアカウンセラーは、個々人の能力、興味、価値観などの特性をもとに、その人にとって望ましいキャリアを開発し選択できるよう支援するのが仕事。心理学の知識も必要だ。資格を取ったのは2年ほど前。ベンチャー・リンクで部下を育成していたキャリアがあったので、資格を取りやすかった。適性検査も行うが、それ以上に、相談者の価値観、キャリアに気づいてもらうようにしている。自分自身と対話をし、自身のニーズに気づいてもらった上で、選択肢を提示している。その仕事が好きか、チャレンジ精神があるかどうかも大切な判断基準だ。
2004年から朝鮮総連系の朝鮮大学校で経営学部の学生向けに講義を行っているが、学生たちの相談に応えるためにもカウンセラーの資格が必要と思った。将来は朝学内にケア室を作って、就職相談というよりも、生き方の相談ができるようにしたいと考えている。空いている部屋があるので、そこにカフェと相談室を開けば、憩いの場にもなるし、相談もできて一石二鳥と考えている。卒業後は組織に就職するか自営業に就く人が多いが、将来は日本社会で就職しようとする人も増えるだろう。そのためのキャリアアップ講座も必要と考えている。
司会 在日社会の現状についてどう思うか。
李 1世はまず生きること、子供たちに食わさないといけない必死な時代だった。2世も生活や差別の厳しさを抱えてきたが、いまは差別も減り仕事の選択肢も増え、活躍の可能性が大きく広がっている。
帰化条件も緩和され、サッカー日本代表の李忠成選手のように本名で帰化したケースさえある。こうした中、次世代の在日を考えると、我々在日のルーツだけは伝えておきたいし、知っておいてほしいと強く思う。自分たち在日が今ここに至った歴史・ルーツを知らない在日が多い。
現在、年間1万人近くが帰化し、在日の人口はますます減ると思うが、日本国籍を取るにしても、どんな人生の選択肢を選ぶにしても、それは自由である。しかし、在日のルーツがどういう経緯を経て現在に至っているのかを自覚しておく上での「積極的な将来選択」であって欲しい。そうでなければ自由な「在日」といえ、それは単なる「根無し草」と同じことになってしまい、「在日」の意義も薄れてしまうのではないかと危惧している。
韓 私は日本人の男性と結婚し、いま2歳半の子どもがいる。子どもは日本国籍だが、やはりルーツだけは教えておきたい。どちらでも読める名前にしたいと生まれる前から話していた。夫も子どもには2つの文化、歴史をきちんと教えておこうと言ってくれている。韓国の歌などから入ったら親しみやすいかなと考えていて、韓国語も教えたい。後は自由に生きてほしいし、そう出来る社会であってほしいと願っている。
金 私は米国留学時代に知り合ったアフリカ人と結婚している。ベナン出身で、韓国にも日本にもいた経験がある。将来子どもができたら、日本、アフリカ、そして在日のことを伝えたいと思っている。欲張りすぎかもしれないが、子どもには英語、韓国語、日本語、それにベナンはフランス圏なのでフランス語も話せるようにと願っている(笑)。
数年後は米国、その後はベナンで生活する計画だ。世界を舞台に貿易の仕事を2人でやりたいと思っている。
李さんが話されたようにルーツを教えることは大切だ。ただ、国によって歴史認識が違う場合がある。朝鮮戦争が顕著な例だ。戦争のきっかけについて朝鮮学校で学んだことと他の国の認識は違っている。韓国と日本でも歴史認識の違いがある。在日がどういう視点で歴史を見つめていくかは大切な課題だ。
李 在日のルーツについてだが、次世代への伝え方は難しい。例えば私が学んだような強制連行とか闘争の歴史は、いまの若者はそれほど読みたいとは思わないだろう。歴史を知らないわけだから、在日の若者が親しみやすく在日の歴史に触れることが出来るような「近現代史」の教科書的な本が欲しい。
最近では夫婦間でも育った背景が違うので、子どもの教育についてさえ、どう意見を一致させるかという難しい問題もある。個人的には将来、韓国に留学させたいと話している。
尹 私が所属する在日コリアン弁護士協会で、在日や日本の若者向けに在日の歴史を知ってもらおうと「裁判の中の在日コリアン 中高生の戦後史理解のために」(現代人文社)という本を今年2月に出した。在日の歴史、現状、心情に至るまでを、日本社会、韓国社会、海外のコリアン同胞に伝えたい。
李 そのためにも在日の新しいネットワークが大切だ。1世は自分達のネットワークを大切にして、世代を継いで来た。既存の民団、総連という組織があるが、幅広さに欠ける。
在日社会には横をつなぐネットワークが足りない。インターネットなどももっと活用して、新たなネットワークをつくり、在日の若い世代があちこちで頑張っている他の在日の存在を知り、情報を共有することができれば、いろいろな形の在日像に刺激を受け、次世代の将来に希望を与える場が増えるのではないだろうか。
金 先ほど話した大学内にカフェを作りたいというのも、ネットワークを広げたいという目的が根底にある。各界の多様な在日を招いて講演会も開きたいし、そういう活動を通してつながりを広げたい。私を含めて在日の若者はネットワークが少ないので、大学のカフェを活用して機会を広げていきたいと思っている。政治色は排除し、自由に集まり、自由に話せる場にしたい。
韓 地元の大阪なら在日コミュニティーとの接点があるが、東京にはそういう場はなかった。幅広いネットワークがあれば、そこで会話や相談もできるし、自分自身が何かの役に立てるかも知れない。
司会 最後に、在日は今後どう生きればいいのか、そして各自の目標をお聞きしたい。
韓 在日としてのアイデンティティーとルーツについての知識をある程度持ったら、後は好きなことを一生懸命やって、自由に生きられる、そういう在日の若者が増えればと思う。私もファッションデザイナーという好きな仕事にめぐり合い、多くの仲間と仕事をすることができた。やれば出来るという信念を大切にして努力してきた。
世界のファッション業界で活躍する韓国人も増えたし、ハンアンスンという名前で逆に注目を集めラッキーだった側面がある。いま数千円で買える子供服から数百万円のドレスまで作っているが、これからも自分のカラーを大切に、世界市場を相手にしていきたい。
尹 日本社会にはまだまだ差別・偏見が残っている。いまだに多くの在日が通名を使っている現状は何を意味しているのか。在日に生まれなければよかったと思わせること、自分の出自を隠して生きなければならないということを次世代には絶対にさせたくない。難しいかもしれないが、在日として堂々と生きられる社会を作りたい。自分自身が本名で仕事することで在日の存在感を示し、そしてすべての在日外国人が差別を受けないためのリーダーシップを在日が取っていかなければならないと思う。
一人の弁護士としては、在日の地位を一歩でも後退させてはならないし、残された課題に取り組んでいきたい。一人ひとりの依頼者に感謝される仕事をずっと続けていきたい。もちろん韓国との仕事もどんどん行いたい。
金 日本・米国・アフリカを往来して生活することは確定しているので、それを利点にしてビジネスを行い、人と人をつなげていきたい。私の子どもの世代が出来るだけいい環境になるよう努力し、私と夫の2人のルーツを伝え、新たな社会を築いてほしい。祖国が統一したら、そこでもビジネスをしてみたい。
キャリアとは仕事を含んだ生き方すべて。在日社会を大切にしつつ、日本社会でキャリアを積み、夢を大切にし、自信を持って生きる、そんな若者が増えてほしいし、そのための人材育成に貢献できればと思う。
李 今後の在日は未来志向で「日本社会にも貢献する存在」として生きることが大切だと考える。日本社会に貢献できてこそ、「在日」の存在価値が上がる。また、日本社会の先端で働く姿を後輩に示すことで、若者たちの刺激になれば。
あの人のようになりたい、あの人以上に自分ならもっと出来ると、若者立ちに思わせる刺激が必要だ。そのためにも組織にとらわれずに在日の情報を共有できるネットワークが必要だ。逆に私も若い後輩たちから刺激を受けたい。相互刺激の関係だ(笑)。
商社マンの立場としては、個人的には近い将来の北朝鮮とのビジネスに関心がある。北には希少金属があり、インフラは未知数だが、昔は商社の事務所もあった。ビジネスを通じ、民族に貢献出来れば、商社マンとしての自己実現にもなる。在日社会も次世代のために、いまは無理をしても短期的なものの考え方ではなく、長期的視点で次世代に引き継げるものを残していく、そういう観点と行動が大切で、自分も益々努力していきたい。