植民地時代の韓半島に教員として赴任し、朝鮮の子ども達に分けへだてなく接し、特高警察に逮捕・釈放後は、日本の炭鉱で朝鮮人労働者のために活動した上甲米太郎さん(1902~1987)の足跡を紹介する企画展「朝鮮の子どもたちと生きた教師 上甲米太郎」が、東京・新宿の高麗博物館で8月5日から10月26日まで開かれる。長女で女優の上甲まち子さん(70)に話を聞いた。
上甲米太郎氏は、愛媛県八幡浜市の出身。
植民地時代の朝鮮に渡り、朝鮮人の子どもたちの通う慶尚南道昆明普通学校の校長を務めていた。熱心なキリスト教徒であった彼は、朝鮮の子どもたちの貧しさと、教育を受けられない子どもたちが多いという現実を前にして、この問題を解決するには、社会改革とプロレタリア教育以外にはないと考えるようになった。そして、1930年に創刊された新しいプロレタリア教育を提唱する「新興教育」の読者となり、読者会を組織した。
さらに朝鮮の独立を支持し、その思いを日記に書いていた。当時、そのような思想を持ち、また朝鮮人と行動を共にしようとする日本人は稀有な存在で、朝鮮総督府に警戒され、上甲氏は教え子と共に特別高等警察によって治安維持法違反で1930年12月に教え子とともに逮捕された。
ソウルの西大門刑務所に1年間投獄され、出所後は土木労働などをしていたが、1941年、特高警察によって北海道・釧路に強制連行された朝鮮人労働者の通訳・労務係にされた。1944年、釧路の炭鉱が閉鎖されると朝鮮人労働者は九州の三井・三池炭鉱に強制配置させられる。2度の強制連行いわゆる「二重連行」させられたのである。上甲さんも共に強制配転させられたが、脱走を試みた朝鮮人労働者に助言を与えて、会社から怪しまれたりしたという。
同地で解放を迎えると、いち早く労働運動を始めるがすぐに解雇。その後は日雇い労働者をしながら、朝鮮人集住地に住み、子ども達のための民主紙芝居を行うなど、生涯を通じて、日本と朝鮮の子ども達に捧げた。
◆「一生を朝鮮に」上甲まち子さん(70)の話
正直で穏やかな人だったが、差別には徹底的に反対する信念を持っていた。投獄されたときの話を聞くと、恐ろしいことは言わずに、食事が豆ご飯なのですぐにおならが出て、同房者とおならの大きさを競った話を笑いながら聞かせてくれた。獄中で朝鮮人学生に「あなたのやったことは正しい」と言われたのが、とてもうれしかったと言っていた。自分の家族より人の心配をする人で、戦争中はリンチを受けた朝鮮人を助けたり、戦後は炭鉱を首になった人のめんどうを見ていた。
家は貧乏暮らしだったが、私は高校まで出してもらった。金嬉老事件があったときは、朝鮮人差別が原因だと言って証言台に立った。とにかく正義感の強い人だった。死の間際、「俺の一生は朝鮮人民のためにあった」と言って亡くなったのが忘れられない。