在日2世の具英成・神戸大学大学院外科学講座チェアマン・肝胆膵外科学分野教授(56)は、最先端技術を駆使したがん治療の第一人者。外科手術と独自に開発した化学療法を組み合わせた「2段階治療」を施して、日常生活が出来るまでに回復させるなど数多くの難手術を成功させ、内外の医療関係者から「ゴッドハンド」と注目されている。具教授に話を聞いた。
――2006年8月、ハーバード大病院でも「治療はできない」と言われた末期肝臓がんの米国人男性の手術を成功させ、一躍注目されたが。
私たちが実施したのは、外科手術と独自の化学療法を組み合わせた「2段階治療」だ。まず肝臓全体の7割近い患部の切除手術を施した上で、残りの肝臓に集中的な化学療法を行った。この方法では抗がん剤をカテーテルで肝臓に注入しながら、肝静脈から血液を抜き取って、余分な抗がん剤を除去してから全身に戻すので副作用が大幅に少なくできる。その結果、通常の10倍の抗がん剤を肝臓に投与できるのが特徴だ。私が経験した中でもとりわけ難しい手術だったが、成功し、患者は数カ月後には米国に戻ることができた。この方法で、進行肝臓がんの治療成績がまた一段階引き上げられたと自負している。
――同治療を始めたのはいつごろのことか。
研究チームでこの「肝灌流」と名づけた治療方法を確立するまで10年間の実験、臨床研究を要した。治療を始めた92年以降、肝臓がん患者に対し42例行い、1年生存率は84%、5年生存率は37%だ。これまで1-2カ月で亡くならざるを得なかった患者が、1年以上生きられる意味はとても大きい。もちろん医学には限界があり、この治療ができるのは患部の切除が可能な場合で、それは訪ねてくる患者の3割ほどだ。今後さらに研究を積み重ねたいと考えている。
――島根県出身の在日2世とお聞きしたが、医学を志したのはいつか。
父は島根で林業を営んでいた。10人兄弟の8番目に生まれた。長兄が今なら助かる事故で亡くなり、母がいつも深い悲しみを抱いていたことや、医療の大切さを知り医者を強く勧めた兄弟がいたことがきっかけとなり医学に興味を持った。医者になろうとはっきり決意したのは高校2年生のときだ。在日に生まれて露骨な民族差別を受け嫌な思いをしたことはもちろんあるが、両親や兄弟に守られ、あまり気にならなかった。
高校までは日本名だったが、大学入学時に本名に変えた。医学は実力がすべて、夢と希望を信じて努力してきた。外科、中でもがん治療は医学の最先端技術を必要とする。母校に残り、医学研究の大切さに気づき、がん治療の限界に挑戦する過程で、大学病院の外科医になったのは、私にとって必然だった。
――一番記憶に残る患者さんや手術は。
2002年の若い母親の女性で、その方は小さなお子さんを連れてやってきた。肝臓の右葉に大きな癌があり、それ以外に多数の転移が肝臓に広がっていた。「肝灌流」の治療を施し、すべての腫瘍がねらい通り完全に消失した。しかし、“癌は治癒したが生命が危ぶまれる“皮肉な事態に陥った。動脈と門脈の閉塞で、肝膿瘍、肝不全となったのだった。万策尽きて家族に生体肝移植を提案した。度重なる手術や炎症による厳しい癒着で肝臓がどこにあるのか、癒着剥離で難渋した。手術後も原因不明の黄疸が40日にわたったが、その後、思い切って使った薬で奇跡のように回復した。30数年の診療経験を通してこの時のような劇的な回復は持ち合わせてはいない。
――がん治療チームを率いる上で、常に心がけていることは何か。
がん治療は一人で成り立つ医療ではない。チーム全体の高度な技術レベルが必要だ。各個人が密度の高い医師にならないと患者の命を守ることはできない。特に外科医には「行動力と繊細な感性」が求められる。私の教室には大学に30人ほどの医師がいるが、皆で次の理念を心がけている。◇患者の期待に答える最先端医療を推進する◇新医療技術の開発と国際交流を推進する◇成果をいち早く国内外に発信し、世界的視野で検証する◇自分に厳しく、仲間を信頼しチーム医療を推進する◇大学外科医の使命と誇りを次世代に継承する、の5つだ。
――最後に在日の若者にメッセージを一言お願いしたい。
挫折や困難を経験することがあっても、それに負けず、その経験を超えることで、逆にやさしさや品性・品格を高め磨いてほしい。私も人生で大きな失敗や挫折を経験しているが、先輩や友人、家族に支えられ、「ともすれば投げ出したくなる自分自身に負けず、忍耐と協調性」を持って乗り越えてきた。自分の選んだ領域であれば、妥協せず常に今一歩の努力を重ねてほしい。