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2009/08/14

<在日社会>光復節座談会・在日の存在をアピールし、より良い社会をつくろう!

  • 光復節座談会

    在日と社会活動についてディスカッションする参加者たち
    (中央が金時文・本紙編集局長)

  • 光復節座談会①

    イ・チュンジェ 1959年石川県生まれ。在日3世。信州大学医学部卒。国立リハビリテーションセンター病院眼科医長などを経て、り・としや眼科クリニックを08年11月、東京・小伝馬町にオープン。

  • 光復節座談会②

    キム・スンヨン 1968年滋賀県生まれ。在日3世。明治東洋医学院卒。2001年の自主制作映画『チベットチベット』が観客動員10万人を記録。第2作は中国の少数民族をテーマにした『雲南COLORFREE』、現在インドの魅力を伝えるドキュメンタリーを制作中。

  • 光復節座談会③

    ヨ(近藤)インミ 1969年埼玉生まれ。4歳からピアノを習う。慶応義塾大学英文科卒。三井物産に入社。退社後ピアノアレンジ奏法&司会トークを学び、ピアニスト&司会者として活動。現在は韓流音楽、タンゴ、シャンソンなど幅広いジャンルでコンサート活動を行う。チャリティーで社会貢献。

  • 光復節座談会④

    ソン・キアン 1982年京都生まれ。在日3世。2005年東京大学薬学部卒、2008年同大学院薬学系研究科卒。2008年に、ワンコリアフェスティバル東京2008実行委員会副代表を務める。外資系金融会社に08年から勤務。

 解放から64年が経った。在日社会は、日本に生活基盤を築いた在日一世が減少し、2世、3世中心となり、4、5世も登場する時代になった。日本に生活基盤を持ち、日本社会でいかに生きるべきかを真剣に模索しなければならない時代が来た。日本社会との関わりを通じて、在日としてどう生きていくか、「より良い社会をつくろう、社会活動に取り組む在日同胞たち」をテーマに、各界4人の在日に語りあってもらった。(司会=本紙編集局長・金時文)


◆ 出 席 者 ◆
 
眼 科 医
         李  俊 哉 さん
映画監督 
         金  昇 龍 さん
ピアニスト
         呂  仁 美 さん
外資系勤務
         宋  基 央 さん


 司会 まず自己紹介から始めたい。各自の経歴、どんな活動、仕事に従事しているか語ってほしい。

 李 信州大学医学部を卒業後、眼科医として働いている。今年で24年目になる。昨年独立して都内に開業した。クリニックの多くは、地域名を病院名にしているが、大阪府ではクリニックに自分の名前を入れなくてはならず、り・としや眼科にした。東京で昨年クリニックを開くことになり、関東地域では本名、しかも外国人の名前では少し違和感があると考えたが、ありのままを出して生きたいと考えてきたので、「り・としや眼科クリニック」をスタートさせた。

 弱者の助けになりたいと考えて医者を志したので、セカンドオピニオン的な役割を果たし、また正しい医療情報を発信していきたい。眼科治療を通して実は色々な病気を発見することができることをアピールしたいと考えている。日本全国には約1万人の眼科医がいるが、そのうち在日の医者は数十人だと思う。

 金 針灸接骨師の学校に通っていたが、28歳で卒業した時、子どもの頃からの夢だった世界一周旅行に出かけた。上海にある大学で針灸の勉強を2年間してくると親に話して、受け取った費用で世界一周の旅に出た(笑)。その世界旅行でチベット問題と出会い、衝撃を受けた。それまで、自分が韓国人であることを否定し、韓国人であることを隠して生きてきた。日本に戻ったら帰化申請をしようと思っていた。ところがチベット問題を目の当たりにして、彼らが守ろうとしているものは何なのか。未来に向かって生きていくのに、民族性が必要なのか、ということが気になった。調べて見ると、チベット問題が終わっていないことを知った。ビデオ撮影しながら、自分自身の民族意識についても考える経験をした。

 完成した映画『チベットチベット』は2001年に公開したが、観客はこれまでに約10万人に達する。なぜ映画が受け入れられたのか考えると、民族問題の映画になったからだと思う。等身大の自分をさらけ出して撮影しているので、日本の人にとっては、在日の視点を通してチベット問題を知ることができた面があり、在日の人は同じマイノリティーとして共感の度合いが強いと思う。また、本名を公表して自らの民族問題と向き合ったという点が評価してもらえたと思う。民族的な誇りというのは、韓国人だったら韓国人らしさであるとか、日本人だったら日本人らしさだと思うが、その「らしさ」を、しっかりと持ち続けている人は、周りから見ても、自分を確立している印象を受ける。民族性というのは、その民族が持つ「らしさ」だと思う。

 呂 両親が「韓国人であるという意識を持ちながらも、北(総連系)や南(民団系)にこだわらずグローバルな視野で子供を育てたい」という教育方針であったことと、母が1世である父親を事故で早くに亡くし、高校でトップの成績を収めたにも関わらず、当時韓国人は日本の奨学金をもらうことが出来ず、大学進学を断念せざるを得なかった悔しい想いがあったので、私たち兄妹が日本社会で生きていくに際し選択肢が広がる様、83年に帰化をした。

 NHKが放送した「冬のソナタ」をきっかけに日本でも韓国ドラマや映画を多数見ることが出来るようになり韓国の歴史や文化を身近に感じるようになった。また3年前に母が帰化申請の時に韓国から取り寄せた「戸籍謄本」を元に韓国旅行で父が知り合ったガイドさんに親戚を探し出してもらった。そして母の父(私の祖父)の弟が平山申氏の3冊にわたる族譜を持って来日した。それによると高麗王朝初代王様の太祖王建の身代わりで西暦927年に戦死した、王建の第1側近、申崇謙将軍の子孫であることが判明した。6月に発行された5万ウォン札の申師任堂がその19世だ。そして母は33世として族譜に名前を連ねていたので、自分のルーツをはっきりと実感することが出来、感動すら覚えた。私は三井物産に入社して3年半勤務した後、4歳から続けていたピアノを生かした仕事をしたいと思い、アレンジ奏法を学び、それまで弾いていたクラシックからポピュラー音楽のピアニストとなった。現在は「癒し」をテーマにトークをしながらの演奏活動をしており、自分のルーツがわかった3年前からは、チマチョゴリ(民族衣装)を着て「韓流音楽」中心のコンサートを行っている。

 宋 ずっと日本の学校に通ったが、母が民族学校の先生をしていたことがあり、家では小さい時からあいさつも韓国語という感じだった。本名を名乗っていたので、日本にも韓国にも偏りすぎることなく、ニュートラルに生きてきたと思う。ただ、何で自分だけ周囲と違う名前なのかとは思っていた。小学生の頃は、同級生からからかわれ少し辛い面もあったが、いま考えたら、小さい頃から自分のルーツについて考える機会があったことは、自分にとって大きな財産になっている。高校生の時に学生会という日本の学校に通う在日の集まりに参加した。そこで初めて、自分と同じ立場の学生たちと出会った。同じような悩みを持ち、同じような考え方をしている仲間がいることで、初めて在日について前向きに考えられるようになった。

 大学院1年が終わった後、休学して韓国に行った。韓国語を学ぶとともに、韓国の人たちが日本や在日をどう捉えているのか、それを知りたいと思い、西江大学の語学堂に半年通った。韓国に自分探しに行き、やっぱり在日は在日として生きていくしかないと思った。日本に帰ってから、ワンコリアフェスティバルの活動に没頭した。

 司会 社会活動の原点は人と人の関わりだと思うが、実際に社会活動をしながら、どういったことを感じたか。

 金 上映活動をしながら思ったのは、民族問題が足かせとなって、心の壁となっているのであれば、それは取り除いた方がいいということだ。私も映画を作る前は金森太郎と名乗って、在日であることを隠していた。ところが映画を作ったことをきっかけに、金昇龍と名乗ったら、民族を明るく捉えられた。在日である劣等感さえ克服してしまえば、あとはメリットだけが残るということを分かってもらいたい。

 宋 自分は在日だと分かっていながら、学校で本名を名乗れずに悩んでいる後輩を見て、在日を前向きに捉えられなかった3年前の自分がそこにいた。そこで、在日を前向きにとらえられるようになったという自らの経験を、夏休みのサマーキャンプで話したら、「学校が始まったら先生と相談して自分が在日であることを言いたい」と、後輩たちが泣きながら語ってくれた。自分の境遇を否定しながら生きていくのは寂しいことだし、もったいないと思う。私は小さい時から在日ということを自覚して26年間生きてきたが、基本的に人生を楽しんでいる。選挙権が無いなどの問題は未だ残っているが、そんな制約を抱えた中でも人生を楽しめるし、それを実証できていると思う。それを一人でも多くの在日に伝えたいし、そういう場所を求めてワンコリアフェスティバルに参加した。ワンコリアフェスティバルの長所は、祭りとして在日の在り方を提示することだと思う。座談会や討論会、セミナーなど難しい話から始めると入りにくい人も多い。韓国料理がおいしいとかチマチョゴリ(民族衣装)が綺麗とか、韓国の音楽はいいとか、そういう楽しい部分を全面的に打ち出して在日や日本の若者にアピールできる場所があってもいいと思った。人は何かそういうきっかけを持つと、後は自主的に動きだすと思う。

 呂 私が住んでいる入間地域の人たちは日高市にある高麗神社(高句麗の王族の末裔で武蔵野の地を開拓した高麗王若光を祭る)に参拝する人がほとんどだが、去年NHKで放送された「太王四神記」の影響で全国からファンが参拝するようになり大変にぎわっている。

 現在その地元を中心に演奏活動をしているが、チマチョゴリを着て韓流ドラマや映画の時代背景などを話しながらピアノを演奏する私のコンサートをきっかけに韓国ドラマを見るようになったり、韓国自体に興味を持って下さったり韓国人に対しても友好的に捉える方が増えていて「音楽に国境はない」ということと「美しい音楽は人の心を平和にする」ということを実感している。

 李 本名を病院名に出しているので、実際に患者さんはどういう反応を示すのか興味深かった。大阪で開業していた時は、在日が多い地域ということもあり、ざっくばらんに「在日の方ですか」なんて聞かれたりもして好意的に接してくれた。開業して日本の人たちは私が意識しているほど名前にこだわっていないということを発見できた。逆に在日の側が意識し過ぎていると感じることがあった。私も在日をずっとネガティブに捉えていた。ところが一度乗り越えると後はメリットしかない。むしろ財産だ。私は社会的弱者として育ってきたという意識が長くあった。過去、在日は医療からも福祉からも見放されていた。そういう経験をしているので、逆に障害者に対して、今度は自分がサポートしてあげたいと思うようになった。国立リハビリセンターで得たものは非常に大きかった。何かといえば、自分の足で階段を上るのは健常者には当たり前のことかもしれないが、そのセンターでは、若い人でも交通事故や病気で手足が動かないとか、いろいろな事情を持った人たちが一生懸命社会復帰を目指して頑張っている。自分の足で階段を上がることは大きな喜びだ。そういう視点から見ると、障害を持ったことで弱者の立場で生きていかなければならない人たちの気持ちを、立場は違ってもマイノリティーとして共有できるし、手を差し伸べることができる。たとえば、視覚障害者は白杖を使うが、すべてが全盲ではなく、むしろ、わずかに残された視覚を活用して移動する手段として白杖を使っている。少しの視覚があれば映画館に行くこともできる。映画館のチケット売り場で並んでいる時、あの人は白い杖を使っているのになぜ映画館に来るのかとある子どもが話すのを聞いた人がいる。白杖を持たなければ通勤できないのに、世間体を気にして、白杖を持ってほしくないと家族に言われた人もいる。私は一番身近にいる家族の理解が得られるようにサポートをしていた。在日である意識が弱者の気持ちを共有することにつながった。こうして在日をポジティブに変えられる要素があると実感することができた。

 司会 社会活動はやさしさが一番大事だと思うので、在日のように痛みを知っているからこそ、やさしくなれる部分は確かにあると思う。

 呂 確かに心の痛みを知っていると、いろいろな外国人に対して親切になれる。私の兄が商社勤めで4月にフランスに転勤したが、何かトラブルがあっても、「それが人生さ」くらいで笑って済ませるので、日本とは正反対というか、本当にのんびりしていて、カルチャーショックを受けたと話していた。

 李 外国人が日本にくると非常に圧迫感を受けるという。日本は細かい点にこだわる風潮がある。それは医療制度でも言えることで、もうちょっと融通を利かせれば患者の利益になるのにと思うことが、本当に多々ある。

 金 私は旅人なので海外の辺境に旅行するが、現地の日本人宿によく宿泊する。そこにちらほらと韓国の旅人が混じっている。その辺境の地の人気が出て韓国人宿ができると彼らは来なくなる。私は日本語を話せるから日本人宿に行くが、在日韓国人なんだから韓国人宿にも行く。そうすると、日本人宿と韓国人宿との違いが見えて面白い。韓国人宿は付き合い方が家族的だ。日本宿は、例えば食事ができたと一声かければ、一斉に集まってきて手伝う。いわば和の精神だ。

 呂 母はたびたび、在日であることで人生を2回楽しむことができると言う。日本料理も韓国料理も食べられ、スポーツは両方応援することができる。音楽も両方の曲を聴くことがきる。在日であることで、両方楽しめるわけだから本当にメリットだと思う。

 司会 在日の場合は、視野が日本、韓国、北朝鮮、それに他の国も見ることが出来るので、生まれながらにしてグローバルな存在だ。韓日交流にも在日が役割を担えるのではないか。

 宋 韓国に留学して感じたが、韓国の人たちは日本のことをものすごくよく知っている。日本文化の開放もあり、女の子たちは日本の芸能界について詳しいし、自分以上に日本アニメのことを知っている人も多い。こんなに交流が進んでいるんだと、実際に話をしてみてすごく実感した。また日本でも、ヨン様をはじめとする韓流スターについて詳しい女性が数多くいる。

 しかしその一方で、韓国では親戚の中学生が、「独島(竹島)はわが領土」と言うくらいに歴史認識の差は大きい。日本の中学生が「竹島は日本の領土」と主張するだろうか。それ以前に、多くはその問題を知らないのではないだろうか。歴史認識で橋渡しできるのも在日の役割ではないかと感じた。

 李 9月に、10代の障害を持った人たちのスポーツイベント、アジアユースパラゲームズが日本で行われるが、私は視覚障害者のクラス分けをするメディカルチェックの責任者を務める。そうした所でも在日であることをアピールできると思っている。

 信州大学の医局員だった時に長野パラリンピックのメディカルチェックを担当したことをきっかけに始めたのだが、日本には在日と呼ばれる人たちがいて、ボランティア活動しているということをスポーツ大会を通じて知らせ、アジアの人たちと仲良くできればと思っている。

 呂 文化交流がなかった時は、お互いの文化を理解しあえる機会も術も少なかったが、韓国では98年に始まった日本文化開放政策が、04年に一気に広がったことによって日本の映画や音楽が多く受け入れられ、(倉本裕基や久石譲など)、日本では03年の『冬のソナタ』の放送をきっかけに韓流ファンが増えた。文化交流の輪が広がると、韓日両国間を行き来する旅行者も増え、近年両国に大きな経済効果をもたらしている。

 音楽には国境はなく、美しい音楽は人の心を平和にする。韓国人が持つ日本に対するわだかまりを溶かす、音楽なり、映画なり、人の心を動かすものが必ずあると思う。

 在日の立場から言えば、韓国の叙情的な美しいメロディーを演奏することによって、そういう輪が広がっていけば、もっと偏見のない自然体のままで生きていける世界が確立されていくのではという希望を持っている。

 ピアニストの倉本裕基さんは、韓国で人気が出て逆輸入の形で日本でも名前が知られるようになったが、私は12年くらい前から倉本さんの音楽を聴いている。韓国で倉本さんの曲がドラマや映画で使われ、絶大な人気を誇っているという事実を知って、私の中には韓国人のDNAがあるんだと実感した。

 金 これまでに30~40カ国くらい訪ねたが、最初に行ったのが85年の韓国だった。その時は日本とここが違う、あそこが違う、ここが遅れているとしか韓国を見ていなかった。世界には200カ国以上あると思うが、一番近いのが互いに日本と韓国だ。

 日本人にとっては韓国が一番近く、音楽にしてもドラマにしても食にしても、一番しっくりくると思う。韓国人にとっても、まったく同じことが言えるだろう。その事実だけを捉えても、日本も韓国もケンカをしている時間よりも一緒に楽しくしている時間が長いほうがいい。

 宋 ワンコリアフェスティバルでは、ファッションショーや、在日の歌手のコンサートや、韓国料理の屋台を出しているが、その中で一つだけ南北の子どもたちが書いた絵の展示会や、在日1世の歴史紹介を行った。来場者はふらっと寄って見てくれる。まず知ってもらうということが大切ではないだろうか。どうやったら興味を持ってもらえるかを考えてみたい。

 司会 今後数年間で韓半島がどう変化するか、我々在日がどうやって生きていくのか、どういう生き方を目指すのかという問題が出てくると思う。在日の生き方について語ってほしい。

 金 繰り返しになるが、在日ということを明るく公表すればいい。その上で、在日同士のコミュニティーを持てればと思う。ネットでもペーパーでもいい。私は在日コリアンのコミュニティーサイトに入っているが、同じ考えの人がいかに多いかということが良く分かる。

 在日は、みんな同じような感じで悩みを持っている、こんなに明るく生きている、ということをインターネットで容易に知ることができる。今後は在日であるメリットに気がつくために、在日のコミュニティーにみんなが参加していけばいいのではないだろうか。

 李 在日の将来を考える時、どうしても職業選択という面で、いまだに制限があるのが、最もひっかかるところだ。国籍を日本にすれば済むことなのだから難しく考えるなという人もいるが、在日には、まだ日本国籍取得にジレンマがある。

 各自の能力を生かし、同じスタート台に立てるように制度を整えることが必要だ。そうすれば在日としてのパワーが発揮できるはずだ。

 宋 小さい時から親に「医者になれ」と言われて育ってきた。何でと聞いたら、「在日が日本で生きていくためには、医者か弁護士くらいしか尊敬される生き方はない」と言う。その、あまりにもネガティブな動機付けが嫌だった。そういう意味で親の世代ができなかったことを、可能にしていきたい。一つひとつ崩していって、その崩した分だけ、また下の世代が伝えることができる。

 今は社会人として働いているが、それとは別に在日としての活動を続けていきたい。外資系の会社なので、日本で経験を積んで、将来的には韓国勤務をやってみたい。時代は変わって、昔はできなかったことができるようになったと変化を伝えたい。

 呂 14歳の時に家族で帰化したので、成人した時には既に選挙権があった。家族5人全員が選挙権を持っているので、政治についての会話も増えた。日本社会に貢献しても政治に関われないというのは大きな問題だ。

 1世や2世の方が、奨学金がもらえない、健康保険に入れない、就職ができないとか、苦労した話は聞いているので、そういう先人たちが築き上げてくれた環境に感謝しながら、日本と韓国のいいところを自分の中で融合させて、私の場合には文化交流で日本に貢献したい。

 その先には、韓国でいつか在日ピアニストとして韓国の名曲と日本の名曲の両方を演奏するステージに立ちたい。

 差別や偏見にとらわれて後ろ向きに生きるよりも、「在日の人は韓国と日本の両方を意識できる(料理にしてもスポーツや音楽にしても)1度きりの人生が2倍楽しめる得な立場!と前向きにとらえて生きていきたい。