朝鮮開化派の指導者で、朝鮮近代化に向けたクーデターを起こし、失敗して日本に亡命した金玉均(1851―94年)の書を刻んだ墓碑が、東京・千住の慈眼寺にあることが、田村紀之・二松学舎大学客員教授らの調査でわかった。金玉均が日本亡命当時、千住に一時住んでいたこと、日本の人々と親交があったことをうかがわせる貴重な資料だ。
金玉均の書が刻まれているのは、1892年(明治25年)6月に建てられた鈴木順三の妻チカの墓碑である。
郷土史家の相川謹之助さんによると、鈴木家は代々「井戸福」という屋号の井戸屋だった。「金玉均は鈴木順三にかくまわれていた。その頃にチカが31歳で急死したため、金玉均が墓碑を書いたのではないか」と相川さんは推測する。
金玉均は、日本の明治維新を朝鮮近代化のモデルと考え、日本を何度も訪問。福沢諭吉の協力を得て新聞創刊、日本への留学生派遣などを行うが、1884年にクーデターを起こして失敗。日本に亡命した。
亡命中は日本政府の監視を受け、また本国政府から命を狙われた。1886年に小笠原諸島、1888年から北海道に幽閉され、1890年に東京に戻る。94年、上海に渡った直後暗殺された。
「千住にいたのは1892年前後の1年ぐらいだと思われる。福沢諭吉と付き合いのあった千住の棟梁・金杉大五郎の依頼を受けて鈴木家がかくまったのでは」と田村教授は推測する。
相川さんは、「江戸時代の朝鮮通信使訪問などもあり、朝鮮への尊敬の念が千住の人々にもあったと思う。また千住は人情に厚い土地柄だった。それらの条件が、金玉均と千住の人々との交流に役立ったのでは。また金玉均は書の達人という評判があったので、墓碑の書を頼んだと思う」と話す。
田村教授は、「金玉均は上流階級から庶民まで多くの日本人と付き合っていた。小笠原諸島では島の子どもたちと仲良くなっている。日本では監視下にあったが、一般の人たちとの付き合いが金玉均の心の安らぎになっていたのでは」と語り、「日本の民衆との交流について言えば、朝鮮の革命家ということで尊敬を受けていたと思う。当時の東アジア情勢の中で不幸な最後を遂げたが、金玉均の思想は再研究されていいだろう」と強調した。
田村教授は「金玉均と千住の人々」のタイトルで、近く研究論文を発表する予定だ。