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2021/06/18

<在日社会>マルハン韓昌祐会長、波瀾万丈の人生つづる自伝発行

  • マルハン韓昌祐会長、波瀾万丈の人生つづる自伝発行

           韓昌祐会長

 韓昌祐会長は、1930年、韓国慶尚南道の小作農の家庭に生まれる。1947年10月22日、16歳のときに、実兄の招きで山口県下関市に到着。

朝鮮奨学会の支援で法政大学経済学部に進学したが、結核にかかり入院。読書とクラシック音楽を聴いて闘病生活を送った。

 1952年、苦学して卒業。就職先がなかったため、京都府中郡峰山町(現・京丹後市)でパチンコ店を経営していた義兄のもとへ身を寄せ、その後、義兄からパチンコ店事業を引き継ぐ。1957年には名曲喫茶「るーちぇ」を経営する。

 同時期、日本の女性と知り合い、大反対にあうが結婚にこぎつけた。現在の祥子夫人である。

 67年には当時日本で流行していたボウリングに着目し、「豊岡フレンドボウル」を開店した。しかし、拡張戦略の失敗で60億円の借金を抱える。自殺を覚悟したほどだった。返済のために本業のパチンコ事業に本腰を入れ、86年3月には借金を完済した。

 78年、長男の哲君が米国留学中に不慮の事故で亡くなる悲しい出来事があった。一方、次男の裕君は81年、京都商業野球部で甲子園に五番レフトで出場し準優勝。


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