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2009/05/29

<トピックス>相互依存の韓日関係                                                                               ~朴正煕大統領と三菱商事の相互依存関係~                                         大東文化大学 永野 慎一郎 教授

  • 大東文化大学 永野 慎一郎 教授

    ながの・しんいちろう 1939年韓国生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。英シェフィールド大学博士課程修了。現在、大東文化大学経済学部教授、同大学大学院経済学研究科委員長。

 1965年の日韓国交正常化以降、浦項総合製鉄の設立やソウル地下鉄建設プロジェクトなど、韓国の経済発展を陰で支えた三菱グループの中心人物、藤野忠次郎・三菱商事社長が朴正煕大統領との人間的な信頼関係をもとに、経済分野における韓日両国の相互依存関係を築いていく過程を、永野慎一郎・大東文化大学教授に寄稿していただいた。

 1960年代の三菱商事発展の立役者は藤野忠次郎社長であった。その藤野忠次郎の業績のうち、最も輝かしい実績は韓国との取引である。

 1965年の日韓国交正常化までの日本の韓国取引は三井物産が圧倒的に強く、ほぼ独占状態であった。三井物産は当時副社長を韓国担当におくほど取引額が多かった。これに比して三菱商事は、ソウル事務所に次長クラスを駐在させて細々と市場開拓をする程度であった。

 当時、三菱商事は日本の総合商社の中で最も出遅れていて劣勢だった。その三菱商事を立て直したのが、藤野忠次郎社長だった。これを可能にしたのは藤野と朴正煕の出会いだ。2人の橋渡し役をしたのは、永進興産社長の朴斉郁であった。

 1961年5月16日、朴斉郁は政府官庁担当の新聞記者だったが、軍事クーデター発生時にクーデターの中心勢力の一人、金在春(後の中央情報部長)と偶然出会った。この日、金在春と出会ったことが彼の運命を変えることになる。それから朴斉郁は金在春と頻繁に会って政局について助言した。

 朴斉郁は金在春に一つのアイデアを提供した。朴正煕国家再建最高会議議長とケネディー米大統領との会談実現のための根回しをすることであった。朴斉郁は英語が達者な元ソウル新聞社長の張基鳳と相談し、一般の郵便慣例を使用してホワイト・ハウスに会談要請電報を送るという奇抜なアイデアを考え出した。電文の内容は、当時米国が朴正煕を左翼共産主義者と疑っていたため、「私は共産主義者ではない」と盛り込み、伝統的な韓米友好関係を尊重し、すべての懸案はケネディー大統領閣下との会談によって決定するということであった。この電文は朴正煕の決裁を受けてから、郵便局から一般電報の形式でホワイト・ハウスに送った。

 電報を打ってから10日も経たないうちに、ホワイト・ハウスから朴正煕宛に返信が届いた。7月27日、米国務長官ディーン・ラスクは軍事政権支持を公式に宣言した。朴正煕がケネディー大統領から公式的な訪米招請を受け取ったのは9月12日であった。朴正煕は訪米し、11月14日にケネディー大統領との会談が実現した。この一件で金在春と朴斉郁は朴正煕の信任を厚くすることになった。

 朴斉郁は、朴正煕が対日請求権資金を導入するために韓日国交正常化を急いでいることを知り、韓日経済協力で主導権を握れば、朴正煕を自由に利用できると判断した。朴斉郁は韓日会談代表兼駐日代表部大使に裵義煥・元韓国銀行総裁を推薦した。裵大使赴任後、東京を訪問した朴斉郁は裵大使を通じて三菱商事にアプローチしたが、三菱商事の反応は冷たかった。三菱グループを選んだ理由は、三菱グループが政治経済上の癒着が比較的に少ないこと、海外進出において他の商社より出遅れていたので、三菱なら韓国市場に全力投球するだろうという読みがあった。

 三菱訪問で、最初は担当課長が事務的な対応をするだけであった。2度目は常務との面会であった。三菱は朴斉郁の朴正煕との信頼関係をテストした。信頼関係を確認したうえ、63年春、三菱商事の荘清彦社長との面談が実現した。裵義煥大使が同席し、三菱側から当時常務であった藤野忠次郎も同席した。この席で三菱商事の対韓国経済協力が事実上、決まった。

 64年7月、三菱商事と三菱重工業は代表団を韓国に送り、朴正煕大統領の意志と経済開発に取り組む姿勢を再確認した。三菱側は大統領を相手に直接交渉を行いたいという要望を述べ、次期社長に内定した藤野忠次郎の朴大統領接見を要請した。

 65年2月、朴大統領と藤野忠次郎三菱商事副社長の面談が実現した。朴正煕にとっては、近代化路線の推進には資金と技術、経験が必要であった。藤野としては、韓国の最高実力者である朴正煕は信頼できる相手なのか、韓国市場に投資する価値があるのかという判断をしなければならなかった。二人にとって「歴史的な出会い」であった。

 藤野は挨拶を交わしてから、「金浦に到着したら国が暗かった。明るくなければ、国民に希望をあたえることはできません」述べた後、「企業代表として訪問した者として、過去日本の植民地時代について謝罪します」と言い、国交正常化後、三菱グループの対韓経済協力方針について説明した。

 「三菱グループは国交正常化以後にすぐ日韓経済協力に参入する方針です。経済開発5カ年計画と重工業立国に寄与したく思います。韓国進出に当たっては、人材を育て、会社を育成するためにあらゆる協力を惜しみません。また対韓国取引の20%は資本投資します」

 朴正煕はうなずきながら「感謝します」と言った。

 朴正煕は藤野忠次郎三菱商事副社長との会談において日本語で話し始めた。

 「韓国戦争が起きた後、米国の余剰農産物で食いつないでいます。けれども政治家は争ってばかりで、北韓の脅威も未だ存在しています。けれどもわが国は現在金もなく、市場もなく、何もありません。実際に暗澹としています。藤野さんのように清廉かつ経綸の高い方がいらっしゃってご指導くださるとありがたいです」

 朴正煕はさらに次のように述べた。

 「日本の陸士に在学していた時分、三菱重工業を訪問したことがあります。そこで造られていた軍艦と潜水艦を見て感動したことがあります。それで三菱をお呼びしたのです」

 藤野は控え目ながらも確信に満ちた語調で語る大統領を見つめながら、次のように約束した。

 1.反共を国是とする韓国の立場を尊重し、三菱が将来周辺の共産国と取引する時は大統領の許しを得る。

 2.ただし、金日成集団とは将来も取引しない。

 3.三菱グループは大統領を直接対話相手とする。

 この約束は、少なくとも藤野が三菱グループを率いていた時は完全に守られていた。日中国交正常化に伴って三菱グループが中国市場に進出するようになった時は、藤野が約束通り朴正煕に会って了解を求め、朴正煕のメッセージを中国指導者に伝達した。

 朴正煕はシャツの袖をまくりあげると、地図を広げ、指で線を描きながら、

 「まず高速道路を建設しなければなりません。三菱が参加してくれたらと思います。社会間接資本も重要ですが、早く国を明るくしなければなりません。三菱には発電事業に参加してもらいたいと思います」と述べた。

 朴正煕の野望と執念、藤野の経綸と配慮に満ちた最初の出会いは、90分以上の対話であった。大統領の面談が初対面の外国人とこれだけ長引いたことは異例であった。同席した朴斉郁は「二人は互いにすっかり夢中になったようだった。藤野は朴大統領の近代化国家戦略と信念に感動し、朴大統領は藤野の豪勇ぶりと思慮深い提言に心暖まる思いだった。二人は最初の出会いから意気投合したようだった」と語った。

 三菱側は朴大統領を直接対話の相手と約束し、韓国側は、三菱グループ各社は三菱商事に窓口を一本化し、対話の相手として藤野忠次郎次期社長に指名した。これで朴・藤野ラインが始動した。これを契機に三菱グループは韓国の経済発展のための協力に積極的に参加した。藤野は年末年始になると、恒例のようにソウルに行き、朴大統領と国際情勢や経済政策などについて意見交換した。

 66年5月、三菱商事社長に就任した藤野は韓国市場に全力投球した。朴大統領との特別な関係を足場に商事だけでなく、重工業、電機、銀行など三菱系列社を結集させ、対韓経済協力の前線に立った。三菱商事に対韓国窓口が一本化され、三菱商事がグループの主導権を握ることになり、藤野は三菱グループのリーダーとしての役割を果たすようになった。

 65年6月、日韓協定締結直前まで韓国取引をリードしていた三井グループを押しのけ、三菱グループが韓国市場をほとんど独占するようになった。藤野社長在任中に三菱が参加した代表的な事業は、大韓造船公社拡張、新進自動車技術提携、三菱銀行ソウル支店認可、エレベーター製造合弁、唐人里発電所建設、双龍セメント工場建設、京仁(ソウル・仁川間)線電鉄化事業、ソウル地下鉄事業、輸出工業団地造成事業、輸出RKミッション、浦項綜合製鉄所建設事業および繊維事業などであった。

 67年に三菱銀行ソウル支店が日本の都市銀行の最初の支店開設認可を獲得した。日本の各銀行の間で熾烈な競争が起こっていたが、朴大統領との太いパイプを持っていた三菱銀行が単独で勝ち取ったものだ。当時の佐藤栄作首相が韓国政府に対し、富士銀行のソウル支店認可を要請する口上書を送った。富士銀行頭取岩佐は佐藤首相の親戚だったこともあり、日本の首相が直接頼んできた場合、韓国政府としては受け入れることが慣例であったが、慣例を無視してまでも三菱グループのパイプラインが強力であったことを意味する。朴正煕は中央情報部長に命じ、日本の銀行が事前にどんなロビー活動をしていたかを調べさせた。富士銀行、第一銀行、三井銀行など大手銀行が様々なルートを通じて、特定政治家にロビー活動をし、お金を渡していた事実をつかんだ。三菱銀行だけがそのような事実がなかったため、三菱銀行だけに内々の認可書を出したのである。

 1967年6月、三菱銀行ソウル支店開設に併せて、三菱グループ4社の社長団が訪韓し、朴正煕大統領を表敬訪問した。5月3日、大統領選挙、6月8日、国会議員選挙が終わったばかりの、朴正煕にとっては大統領に再選し、経済開発を再スタートする時期であった。

 田実渉三菱銀行頭取、藤野忠次郎三菱商事社長、河野文彦三菱重工業社長、大久保鎌三菱電機社長の系列4社長が揃って外国に訪問するのは異例であった。三菱グループの韓国取引の重視の現われであり、朴大統領とのパイプを大事にしたいというビジネス的判断でもあった。また、大統領選挙においては三菱側から朴正煕候補に相当の政治献金があったとも言われている。

 三菱グループ社長団の訪問を受けた朴大統領はご機嫌になり、即座で三菱側に贈り物をした。当時、韓国政府が推進している嶺東電鉄と嶺東高速道路の建設を三菱に要請したのだ。三菱側も大統領に改めて対韓経済協力を約束した。しかし、嶺東電鉄プロジェクトの契約は政権内の実力者たちの巻き返しによって欧州連合社に決まった。この話を伝え聞いた藤野は驚き、ソウルに飛んで行き、朴大統領との面会を要請したが取り次いでくれなかった。三菱商事内でも藤野に対する責任論が持ち上がった。

 朴大統領と藤野の関係の破綻に心を痛めていた朴斉郁は、嶺東電鉄の件は諦めるという条件で、朴大統領との面談を李厚洛秘書室長に要請した。朴斉郁は大統領に浦項製鉄プロジェクトの日本転換を建議した。大統領の了解のもとで話が急進展し、68年2月9日、大統領と藤野の面談が実現した。浦項製鉄プロジェクトは、KISA(韓国国際製鉄借款団)との間で交渉が進行中であったが、経過は芳しくなかった。

 朴正煕は、「藤野社長、浦項製鉄プロジェクトは日本が進めてくれることを望んでいます。日本と韓国は同じ文化圏であり、地理的にも近く、日本が行うことになった場合、機械や原資材の輸送も有利であるし、技術者教育の面でも有利です。我々は工場一つ建てるのにもまったく経験がありません。日本の製鉄所が支援してくれれば安心です。藤野社長が中間に立って私の意志を日本の製鉄所の皆さんに伝え、話をまとめてください」と心境を述べた。藤野は「そうですか、それなら閣下の意志を日本に伝え、その結果を手紙で報告いたします」と答えるのに精いっぱいであった。

 日本に戻った藤野は浦項製鉄プロジェクト推進のために全力を傾注した。稲山嘉寛八幡製鉄社長、永野重雄富士製鉄社長の二人の鉄鋼業界巨頭に協力を要請し、政界や官界にも借款供与のための根回しを繰り広げた。

 68年4月、藤野から朴大統領宛の親書が渡された。内容は「やっと合意に達しました。いったん峠は越えました。お祝い申し上げます」であった。

 結局、KISAによる借款導入計画は失敗に終わったので、浦項製鉄建設は対日借款によって推進することになった。藤野の努力によってこのプロジェクトは三菱商事が担当することになり、経済的利益だけでなく、三菱商事は主幹事になることで、日本の財界における影響力行使にも良い機会となった。これはまた、藤野と朴大統領の共存の道でもあった。

 三菱商事社史は、韓国取引について「(昭和)40年代前半多数の大口成約に成功し、後半はその受渡し時期に入っていた。すなわち、ソウル地下鉄建設プロジェクトや浦項綜合製鉄所建設に協力、他方では49年(1974年)の製びん合弁会社へのプラント納入を行い、また食品会社向けにびん詰機械や洗びん機を積み出し、そのほか各肥料会社への肥料売込みを行うなどの業務が続いた」と述べ、さらに「当時外貨不足に悩んでいた韓国に協力するため、当社も韓国商品の買い付け、また韓国産品の第三国向け輸出促進に関するミッションを派遣して、多大な効果を収めた」と書いている。

 三菱商事をはじめとする三菱グループの韓国との関係は朴大統領と藤野との個人的な信頼関係に基づき、朴正煕の国家観と藤野の人間性および企業家としての先見性によって維持された。その結果、三菱は韓国近代化に多大な貢献をしたと言っても過言ではない。一方、三菱としても藤野と朴大統領との特別な関係を十分に活用し、事業発展に大いに役立ったことも事実である。相互依存関係の成功例である。

 朴正煕は藤野と出会って意気投合し、相談相手として経済建設について戦後日本の経験を踏まえて助言を受けた。藤野は朴正煕の近代化政策推進の良き理解者として率直に意見を申し述べた。また、三菱グループを代表して最も効果的な投資をすることでグループの業績拡大に多大な貢献をした。韓国と日本、中でも三菱グループとの間で相互協力することで共に利益を得たのである。