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2009/07/03

<トピックス>相互依存の韓日関係                                                                               ~韓国経済発展への在日韓国人の寄与~                                                 大東文化大学 永野 慎一郎 教授

  • 永野 慎一郎 教授

    ながの・しんいちろう 1939年韓国生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。英シェフィールド大学博士課程修了。現在、大東文化大学経済学部教授、同大学大学院経済学研究科委員長。

 1960年代初めに経済開発5カ年計画に着手した朴正煕政権は、在日韓国人企業家の投資を積極的に誘致した。韓国生まれの在日1世企業家たちは祖国の経済的発展と生活水準向上のため、経済や社会、教育分野など幅広く支援活動を行った。韓国に投資して創業した在日企業家たちの歩んだ過程と功績を、永野慎一郎・大東文化大学教授に寄稿していただいた。

 60年代初めの韓国経済は世界の中でも最も遅れた状況であった。政治と経済の混乱が続き、二度も政権交代が行われた。朴正煕政権は近代化路線を掲げ、経済開発5カ年計画を始めたものの、金も技術も経験もない状況のもとで、外国からの援助は頼りにならなかった。そこで、目をつけたのが在日韓国人のなかで成功した企業家たちを呼び寄せて、祖国の経済発展に寄与してもらうことであった。

 経済開発の資金調達源は在日韓国人であった。63年1月から64年8月までの間に韓国に導入された在日韓国人の財産搬入は公式統計だけでも2569万㌦であった。主要なものとしてナイロン系757万㌦、機械類330万㌦があった。

 当時日本は、個人の海外送金の限度額は500㌦であったが、在日韓国人の財産搬出限度は例外的に3000㌦、永住帰国者には1万㌦まで許可された。1万㌦以上の財産を搬入した在日韓国人は21名で、その総額は約1136万㌦であった。数字上では、1万ドル未満が圧倒的に多い。これは公式統計であり、非公式ルートでの財産搬入の方がもっと多いと言われている。

 在日韓国人による財産搬入名目の外貨導入が、韓国の外資誘致の始まりであった。反日的な李承晩政権に代わって、張勉民主党政権が誕生してから、在日韓国人の祖国訪問が頻繁になり、訪問の度に持参した外貨は田畑の購入、不動産投資、学校建設や郷土のセマウル運動などのさまざまな分野で使用されたことは公然の事実として伝えられている。このような手段で導入された外貨のほとんどは統計には現われていない。その金額は相当な額に上ったものと推察される。

 このように在日韓国人が財産搬入、または祖国訪問の際に持参した外貨が経済開発初期の資金源として多大な貢献をしたものと判断される。

 日本で起業して成功し、それを基に韓国においても企業拡大に成功してコーロン・グループを創業した李源萬は朴正煕最高会議議長にアイデアを提供した企業家である。朴議長は62年春、コリアハウスに経済界首脳を集めて経済政策についての意見を聞いた。李源萬は、「農業はもちろん重要です。国民が飢えているので仕方ありません。でも農業のみの発展では、わが国は豊かになりません。工業も一緒に発展できるように推進しなければなりません。我々が生きる道は商品を生産して外国に販売することです。そうすればドルを稼げます。地下資源がないからと言って、気後れする必要もありません。日本も地下資源はない国です。石油一滴もなく、鉄鉱石もありません。しかし、日本には世界一の精油所と製鉄所があります」と述べた。

 さらに金源萬は、「在日同胞の目には全国の川や山がすべて金に見えます。我々の身体にも商売できるようなものが沢山あります。女性の長い髪の毛がそれです。それを切ってカツラを作って売ればどうでしょうか?技術も装備も必要ありません。カツラを作って販売すれば年間数百万㌦は稼げます」と提言した。

 李源萬のアイデアは朴正煕によって即時採用された。韓国のカツラ産業は60年代後半から70年代初め頃まで主要輸出品目であった。

 李源萬は、さらに輸出専用工業団地を設立して、在日韓国人企業家たちを活用すればいいと提言した。このアイデアも朴正煕によって採用された。64年に保税加工の考え方が初めて導入された「輸出産業工業団地開発助成法」が制定され、それに基づいて韓国輸出産業公団が設立された。ソウル市永登浦区九老洞に約14万坪の工業団地が造成された。在日韓国人の輸出産業を誘致する目的で設立されたものだ。

 65年の日韓国交正常化を契機に在日韓国人企業家の本国投資が本格的になり、66年7月、輸出産業工業団地(九老工団)への入居が始まると、第1次入居企業として在日企業14社が入居した。在日企業は入居社の3分の2を占めた。在日企業は電気、電子、化学、繊維、金属など、高度の技術と最新の施設を備えた、当時の韓国では最先端の企業であった。大部分の在日企業は多数の労働力を必要とし、雇用創出にも大いに役立った。

 このように、韓国の経済開発初期段階における在日韓国人企業家の役割は極めて大きい。輸出によって外貨稼ぎに貢献しただけでなく、部品素材産業が出遅れていた当時の韓国の産業界に精巧な技術とノウハウを無料で移転し、伝授した功績は高く評価されなければならない。それが基礎となって経済発展のきっかけとなったのは明らかである。

 九老工団は、韓国最初の工業団地として80年代半ばまで輸出の10%を占め、「漢江の奇跡」の尖兵でもあった。

 韓国生まれの在日韓国人、特に1世たちは、幼少年時厳しい生活環境の中で育った。大部分は教育を受けようとしても学校に通うことすらできず、働いても食っていくことが精いっぱいであった。まともな職場も得られず、生きていくためにはひたすら働くしかなかった。そのような社会環境は植民地時代だけでなく、解放後も続いた。その背景には祖国の経済の停滞と政治の不安定状態が続いていたからである。それに追い打ちをかけたのが、南北分断、さらには同族間の戦争であった。

 厳しい環境の異郷で暮らしながら、少しでも経済的な余裕ができると、故郷で貧しい状況のまま暮らしている家族や親戚のことを忘れることができなかった。そのような状況から1日でも早く脱皮してもらいたいという思いから、故郷への支援を始めた在日韓国人が多い。生まれ故郷の貧しさも、結局は祖国の社会経済発展の遅れが原因である。日本社会で差別を受けているのも所詮は祖国の生活水準が低いからであると認識した。日本で成功した多くの在日韓国人が、さまざまな形で祖国への支援活動を始めたのもそのような背景があった。

 日本で培った技術やノウハウを韓国に移転し、最新の設備を備えて素材産業育成に貢献した在日韓国人企業家が多数いる。彼らが韓国経済の基盤造成に多大な貢献をしたことは明らかな事実である。

 1960年代の韓国経済の状況下で、日本では中小企業にすぎなかった在日企業の韓国進出に伴って導入された機械や設備は最先端であったと思われる。そのような視点から考えれば、当時の在日企業の韓国経済発展への貢献は多大であった。60年代に韓国に投資して企業を創業した著名な2人の企業家を紹介しよう。

 徐甲虎(ソ・ガプホ)は、13歳の時に来日し、大阪で丁稚奉公となり、機織り技術を習得した後、戦後軍需物資のヤミ取引で一儲けし、廃棄同様の紡績機を買い集めて阪本紡績を創業した。50年の韓国戦争勃発は徐甲虎に大きなビジネスチャンスをもたらした。戦争特需景気で莫大な財産を蓄積し、一大財閥となった。50年度の大阪市長者番付トップ。紡績業で成功した徐甲虎は不動産業、ボーリング場などに事業拡大する一方、母国への投資を開始した。

 朴正煕の近代化政策に共鳴した徐甲虎は62年、韓国産業銀行の管理下にあった泰昌紡績を引き受け、63年には邦林紡績を設立した。日本における阪本紡績の実績を最大限活用しながら、日本で培った技術とノウハウを韓国法人に移植して企業を拡大し、邦林財閥を形成した。徐甲虎の韓国投資額は280億円を超える巨額であった。従業員4000人を擁する財閥のオーナーとなった。

 74年、傘下の潤成紡績工場に火事が発生し、工場が全焼してしまった。資金繰りに困った徐甲虎は韓国政府に緊急支援を要請したが拒否され、結局、邦林財閥の経営権を手放すしかなく、韓国からの撤退を余儀なくされた。その影響に加えて、日本国内での経済環境の変化に対応できず、事業拡大による多額の負債を処理できず倒産に追い込まれた。

 しかし、徐甲虎の韓国における事業は失敗したとはいえ、彼が韓国に残した人的物的資産はそのまま継承され、韓国の経済発展の基礎を作る過程において多大な寄与をしたと評価すべきである。さらに、徐甲虎は駐日韓国代表部(現在の韓国大使館)の敷地を寄贈し、大阪総領事館建設にも多額の寄付をしている。また、韓国民団および民族学校の建設にも多額の資金援助をしている。その功績は歴史に刻まれている。

 済州島生まれの安在祜(アン・ジェホ)は13歳の時、単身来日した。大阪合成樹脂化学研究所で基礎知識を習得した後、安本化学工業所を設立した。同社製品は戦後復興期に需要が急増し販売実績を上げ、事業拡大に成功した。生産部門の多様化に伴って日本有機化学工業を設立した。日本化学工業、日新化学工業、北陸化成、安本興産などを設立し、1960年代まで日本国内のボダン生産の70%を占める業界トップ企業となった。

 日本で企業家として成功した安在祜は、67年に京畿道安山市に合成樹脂と同加工品、ホルマリン製造工場を建設し、ソウル市江西区に大韓合成化学工業を設立した。同社製品ホルマリンは韓国の合成樹脂業界のパイオニア的地位を占め、輸出等によって韓国経済発展に多大な貢献をした。

 安在祜は企業家として韓国経済発展に寄与しただけでなく、生まれ故郷済州道西帰浦市表善面には、公共施設建築、学校建築、電気架設、道路舗装などに必要な資金を提供し、また、済州道庁、道教育委員会、済州大学などにも多額の寄付をし、済州道の地域発展にも貢献している。この功績によって、73年、済州道から「済州道公益賞」を受賞した。

 第二次世界大戦後の日本社会は、連合国の占領政策の下で米国の援助に依存せざるを得ないほど厳しい経済状況であった。食糧も不足する状況が続いた。在日韓国人にとっては一層厳しい状況であった。大部分の在日韓国人は大学を卒業しても就職先が見つからず、差別の中で生きていくために必死に働くしかなかった。ほとんどは自営業で、それも日本人が敬遠する職種が多い。飲食店、遊技場、貸金業、再生資源卸売業などが代表的な例である。危機こそチャンスなのだ。むしろ厳しい環境であったからこそ、やる気を起こさせ、大きなチャンスをつかむことができたのかも知れない。このような仕事で活路を開いて成功した在日韓国人は数多くいる。戦時中から戦後にかけて、工場労働者として働きながら技術を身につけ、差別と偏見の多い日本社会において、忍耐と努力で生産業を創業して企業家として成功した例も少なくない。

 大多数は資本金ゼロの小規模の企業でスタートした。持ち前の根性と勤勉を武器にアイデアとチャレンジ精神でチャンスをつかみ、絶えず努力することで基礎を固め、隙間産業を見つけて、果敢に挑戦して企業拡大に成功した在日企業家も多い。

 在日韓国人企業家は、ある程度資産が蓄積すると、民族教育に関心を持ち、故郷や故国への支援活動に乗り出す傾向がある。自らは勉強したくても学校に通える生活環境ではなく、働いて生活していくことが精いっぱいで、勉強などできる時間的・経済的余裕のない世代であった。異郷で暮らすことが決して楽ではなかった。さらに「韓国人」としてのハンディーを背負って、人並み以上の努力をしなければならない宿命でもあった。祖国の貧しさ、経済水準の低さがあることを身にしみて感じていた。祖国が強くならなければならないと考える在日企業家たちは、「人材育成」の必要性を痛感し、人材育成のための支援活動を始めた。

 日本においては、1960年代から在日企業家による奨学財団が設立された。朴龍九(パク・ヨング)育英会(朴龍九・中央土地社長)、山口奨学会(孫達元/ソン・ダルウォン・新日本工機社長)がいち早く設立された。韓国からの留学生、特に、理工系の学生たちに奨学金を授与した。奨学金の支給を受けた留学生たちが勉学に励み、学位取得後、帰国して学界、経済界、政界などで活躍している。

 在日の企業家たちは故郷に学校を建設し、奨学会を設立して育英事業を行っている。育英事業だけでなく、セマウル運動に協力するなど、故郷の生活環境の改善のための支援も惜しまなかった。在日韓国人の祖国の社会経済発展への支援の方法は多様であり、その貢献は多大である。

 企業活動と違って、教育事業への投資成果は時間がかかる。10年後、20年後成果が現われる。教育事業投資は、一種の教育インフラの整備である。教育インフラの整備によって人材を育成し、育成された人材が祖国の近代化および経済発展の担い手として活躍している事実を過小評価すべきではない。人材育成による教育的成果は大きい。98年にも東京で青峰奨学財団(創立者・李根植/イ・グンシク)が設立され、人材育成に努めている。多くの留学生が同財団から奨学金を支給されている。

 在日企業家の特徴は、家族どもとも厳しく節約して貯めた財産を、故郷、または祖国のためには快く寄贈していることである。韓国人独特の「錦衣還郷」の思想から由来しているという見方もある。いずれにしても、彼らの行為が狭義では故郷の発展、広義では祖国の発展に対して多大な貢献をしたことは間違いない。

 教育事業だけでなく、日本で成功した企業家たちが日本で蓄積した資本・技術・経営ノウハウなどを持ち込み、開発初期の韓国において企業を立ち上げて祖国の経済発展に多大な寄与をしている事実を忘れてはならない。当時日本から導入された設備や技術は最先端技術であったと考えなければならない。それが韓国経済発展の基礎となったのである。

 60年代以降、在日韓国人の多くが韓国と日本を頻繁に往来し、公式、非公式にお金を運び、その資金で生産事業を始めている。しかし、経営としてはほとんど失敗に終わった。その理由としては、経営の経験もなく、能力のない親戚に経営を任し、韓国社会への不慣れや商習慣の違い、法整備など受け入れ態勢の未熟などがあった。要するに時期尚早であった。それでも彼らが韓国社会に蒔いた種が後に芽が出て経済発展への契機を作っている。在日韓国人企業としてもっとも成功したのはロッテ・グループと新韓銀行である。日本ロッテを地盤として始めた韓国ロッテの規模は、現在、日本ロッテをはるかに超えている。在日企業家たちの出資によって設立された新韓銀行は現在グローバル銀行として成長している。