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2009/10/02

<トピックス>相互依存の韓日関係                                                                               ~韓日の架橋「木浦共生園」と「故郷の家」                                                  大東文化大学 永野 慎一郎 教授

  • 大東文化大学 永野 慎一郎 教授

    ながの・しんいちろう 1939年韓国生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。英シェフィールド大学博士課程修了。現在、大東文化大学経済学部教授、同大学大学院経済学研究科委員長。

 韓半島西南端の港町木浦(モッポ)は、1897年に釜山、済物浦(チェムルポ、現在の仁川)に次ぐ第3の開港都市となり、6大都市の一つとして日本との関係が深かった。

 当時木浦には、8000人以上の日本人が居住し、日本人街を形成していた。植民地時代の建築物の多くが現在も歴史的な文化財として保存されている。主なものとして、旧日本領事館(現在の木浦文化院、国家史跡指定)、旧東洋拓殖株式会社木浦支店(全羅南道重要文化財99‐3号指定)、旧湖南(ホナム)銀行木浦支店(文化財登録)旧東本願寺木浦別院(文化財登録)、旧木浦公立尋常小学校(現在の儒達(ユダル)初等学校、文化財登録)、日本人家屋などが残っている。木浦は日本との交流が盛んな開港都市であった。

 1928年、韓国人青年尹致浩(ユン・チホ)というキリスト教伝道師が、身寄りのない7人の子供たちを連れて帰り、木浦の片隅で共に暮らし始めたのが児童養護施設、木浦共生園の始まりだ。人々はこの青年に対し親しみを込めて「乞食大将」と呼んだ。

 高知県生まれの田内千鶴子は朝鮮総督府の官吏であった父親に連れられ、木浦に移り住んでいた。母親は熱心なキリスト教徒の助産婦であった。尹致浩はボランティア活動で共生園に来た田内千鶴子と知り合い、やがて二人は結ばれ、共生園の共同経営者となった。周囲の反対を押し切っての結婚であったが、一人娘の千鶴子と結婚するために尹致浩は田内家の養子となった。

 1945年8月は、2人にとって過酷な試練であった。日本の敗戦によって韓国は独立した。尹致浩は日本人妻を持つというだけで迫害された。暴徒が押し掛けてきたとき、守ってくれたのは「僕たちのお父さん、お母さんに手を出すな!」と園児たちが泣きながら抗議した。

 1950年、韓国戦争が勃発、混乱のさなかで尹致浩は500人の孤児たちの食糧費を工面するために出かけたまま、戻らなかった。千鶴子は行方不明になった夫の代役を勤め、戦争孤児の子供たちを一人で養育した。千鶴子は日本人であるため虐められることもあったが、夫の出自を尊重し、韓国人に成りきって、尹鶴子(ユン・ハクジャ)として、チマ=チョゴリ姿で、韓国語だけを使用する園児たちのオモニ(母)であった。3000人の戦争孤児の面倒をみた。尹鶴子の献身的な共生園の運営に木浦市民だけでなく、韓国政府も心を動かした。創立20周年の時、村人によって記念碑が建てられ、政府官庁から数多くの感謝状や表彰状を受け、また、韓国最高の賞「大韓民国文化勲章」が授与された。

 数百人の園児たちの世話で心身ともに疲れ切った千鶴子は、重病で倒れ、1968年11月3日、57歳で永眠した。死の直前、もうろうとした意識の中で千鶴子が長男・尹基にもらしたひとことは「梅干しが食べたい」であった。それまで韓国語しか話さず、孤児たちの母として気丈にふるまっていた母が日本人女性に戻っているのを尹基は感じ、衝撃を受けた。この経験がのちの彼の活動の原動力となった。

 葬儀は木浦市民葬として木浦駅前広場で行われた。当時の新聞は「お母さん!幼い私たちを置き去りにしてどこに行かれるのですか?孤児たちの泣き声に港町木浦が泣いた」(朝鮮日報1968年11月3日)と報道している。市民葬には3万人の市民が参列した。

 共生園で育った17歳の少年の追慕の言葉を紹介しよう(『世界』2009年7月号より)。

 「日本に故郷を持っていながら、言葉も風俗も違うこの国に、あなたは何のためにいらっしゃいましたか。40余年前、弾圧政治がつづいていた日本時代に、泣きながらひもじさを訴えていた孤児たちを集めて、あなたは学園をつくりました。そして自分でご飯をたいて、子どもたちに食べさせました。着物のない者には、着物を縫ってやりました。

 孤児と乞食のあいだで、骨身を惜しまず、世話をして下さったお母さん。あらゆる苦難を乗り越えて、誰もまねの出来ないようなキリスト精神に生きられたのを、どうしてわたしたちが忘れましょう。あなたの韓国語は、たどたどしいものでした。でも、その声、お母さんの匂い、愛で一杯だったあなたの目を、いま、どこで探せばいいのでしょう。お母さん!」

 田内千鶴子の生涯「愛の黙示録」が韓日合同映画として制作され、1995年、日本で上映され、文部省選定、厚生省文化財特別推薦などを受ける。日本映画批評家アジア親善作品賞などを受賞。「愛の黙示録」は1999年には韓国で上映。日本の大衆文化韓国解禁第1号許可作品となった。「愛の黙示録」は韓流ブームの先駆けでもあった。

 「故郷の家」は、社会福祉法人こころの家族の尹基(ユン・ギ)理事長(日本名:田内基/たうち・もとい)が経営する在日韓国老人ホーム。尹理事長の「身寄りのない在日韓国老人が入居できるキムチが食べられる老人ホーム」建設の呼びかけに賛同した日本の財界、芸能界、教育界、社会福祉関係者など451人が発起人となり、有志が集まって「在日韓国老人ホームを作る会」が1985年2月に正式に発足した。初代会長に金山政英・元駐韓日本大使、募金委員長に俳優の菅原文太、広報分科委員長に佐野利三郎・全国社会福祉協議会常任理事が就任した。

 「作る会」の運動が始まって4年後に韓日両国の高齢者が一緒に暮らす、初めての老人ホーム「故郷の家」が大阪府堺市に誕生した。引き続き大阪、神戸で開設され、4番目に「故郷の家・京都」が今年4月に開設した。5番目は東京と決め、準備が始まっている。日本で在日韓国老人ホームが作れるとは誰も思っていなかった。しかし、それを成し遂げたのだ。しかも4軒までは順調とは言えないまでも、出来上がっている。5番目の東京が完成したら、次の目標に向かって進むに違いない。尹理事長の目標は日本全国で10カ所を作ることである。

 4月4日、「故郷の家・京都」の竣工・開設記念式が挙行された。韓国からも大勢の人が駆けつけ式典を盛り上げた。社会福祉関係者だけでなく、金守漢(キム・スハン)・元国会議長、盧信永(ノ・ジンヨン)・元国務総理など、政界、学界、言論界、宗教界の関係者に交じって映画関係者の出席が目を引いた。映画「愛の黙示録」の金洙容(キム・スヨン)監督と尹致浩(ユン・チホ)役の主演俳優・吉用祐(ギル・ヨンウ)の出席は当然としても、「冬のソナタ」の尹錫瑚(ユン・ソクホ)監督と俳優の権海孝(クォン・ヘヒョ)の出席は花を添えた格好となった。国際交流会の司会を担当した権海孝は、尹致浩一代記の映画が構想されていることを発表し、自分が主演俳優になりたいと立候補した。

 日本側も門川大作・京都市長、野中広務・元官房長官、樋口恵子・東京家政大学名誉教授、水谷幸正・学校法人佛教教育学園理事長など多彩な顔ぶれであった。

 「故郷の家」を作る運動の盛り上がりには、尹基の母親・田内千鶴子(韓国名:尹鶴子/ユン・ハクジャ)の存在が大きい。高知県出身の田内千鶴子は朝鮮総督府官吏の一人娘で、木浦共生園を経営していた韓国人キリスト教伝道師・尹致浩と結婚し、行方不明になった夫を待ちながら、戦争孤児たちを養育した。この話は多くの人に感動を与えた。

 田内千鶴子の生涯「愛の黙示録」の制作・上映を機に、1997年10月、田内千鶴子の偉業を讃える記念碑が生誕地・高知市若松町に建てられた。記念碑の石は「千鶴子さんが生涯を捧げた木浦の石を使いたい」という記念碑建設期成会の希望で、高さ2・85㍍、重さ10㌧の石材が木浦から運ばれた。除幕式には木浦共生園の園児や卒業生を含む250名の訪問団を迎えて盛大に行われた。

 2008年10月8日、木浦共生園開設80周年記念事業が木浦で行われた。小渕恵三元総理の令夫人・小渕千鶴子女史をはじめ、20余名が日本から参加した。小渕元総理は2000年3月、田内千鶴子が生前、「梅干しを食べたい」と話したことに感銘し、総理在職中に梅の木20本を寄贈し、いずれ訪問したいと約束したが、果たせず、病に倒れ永眠した。千鶴子夫人の訪問は小渕元総理が果たせなかった約束を代わりに実現するためであった。

 木浦共生園には、多くの日本人が訪れ、孤児たちの里親として支援し、様々な形で協力している。元経団連会長の植村甲午郎は後援会長として支援した。元駐韓日本大使の金山政英は共生園の後援者の一人。大使在任中(1968年7月~72年2月)は何度も共生園に足を運び、朴正煕大統領に離任の挨拶に行ったとき、韓国を離れるに当たって、一つだけ心残りがあると朴大統領に共生園の窮状を訴えた。朴大統領が事情を調べるように担当官に命じ、ヘリコプターを飛ばして木浦に向かったというエピソードがある。

 今年6月13日、「尹致浩生誕100年記念の集い」が「故郷の家・京都」で開かれた。共生園の誕生の地・木浦の丁鍾得(チョン・ジョンドク)市長は特別講演で木浦市における共生園の役割を評価し、木浦市には日本のゆかりの場所が数多くある。復元して観光名所にしたいと表明した。

 「故郷の家」は、尹致浩が設立して田内千鶴子が成長させた木浦共生園から始まった社会福祉事業の一環である。2人の遺志を継いだ尹基理事長が韓日の架橋役をしながら発展させている。尹理事長を影で支えている田内文枝夫人は総括施設長、一人娘の田内緑は韓国・崇実(スンシル)共生福祉財団常務理事。家族の強い絆で「故郷の家」を運営している。「故郷の家」は韓国と日本の交流の場、共生の場として架橋役を果たしている。