野球の世界一を争う第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で5度の激闘を繰り広げた韓国と日本。力を競い合う永遠のライバルとして、韓日は世界にアジア野球の強さを印象付けた。日本の「野球」と米国の「ベースボール」が比較されるように、「野球」と韓国の「ヤグ」は同じなのか、それとも異なるのか。同志社大学大学院の林廣茂教授が分析した。
3月24日午後、筆者は上海に行くため、京都から特急電車で関西空港に向かった。途中、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)決勝戦・日韓両チームの攻防の行方を携帯電話で追っていた。日本が追いつかれ延長となり、最後となった10回表の攻撃でイチローが打席に立った時には、出発サテライトのテレビにかじりついていた。JALの職員がしきりに搭乗を催促した。後ろ髪を引かれる思いでやっと機内に滑り込んだ。イチローが2打点をあげ、ダルビッシュが最後の打者を三振でしとめて、日本が連覇を達成したこと知ったのは、上海・浦東空港に到着した後のことだった。
「日本の野球」と「韓国のヤグ(野球の韓国語発音)」が、優勝と準優勝で世界を極めた。心から素晴らしいと思った。筆者は日本チームの勝利に歓喜したが、日本以外のチームと戦って韓国チームが優勝していたら、韓国にお祝いをしていただろう。
「野球」と「ヤグ」は同じなのか、それとも違うのか。今大会期間中、日韓戦の全5試合を熱くテレビで観戦しながら、そのことを考えていた。
1871年に日本に伝わった「ベースボール」が「野球」と日本語化されたのは、1894年のこととされる。「翻訳者は、当時、第一高等学校のベースボール部員だった中馬庚(ちゅうまん・かなえ)である」が定説だ。「日本のプロ野球」のスタートは1936年で、爾来「ベースボール」を見習いながら「野球」として進化しつつ発展を続けた。
プロ野球とプロ・ベースボールの日米交流は戦前から始まり今日も続いているが、長年、野球はベースボールにまるで歯が立たなかった。米国の単独チームがシーズンオフに家族との観光をかねて日本に招かれ、各地で全日本または日本選抜と数度の親善試合をし、アルバイト料も稼いだ。大リーガーたちがリラックスしながらでも、信じられないほどのパワーでホームランを連発し、長島や王など日本が誇る強打者をバッタバッタとなぎ倒す。こんな光景が70年代まで続いた。
プロ野球は80年代の半ば頃から強くなったと、筆者は実感している。今回、記録を調べてみた。80年代、90年代、そして2000年代は06年まで、米国選抜チームとの試合が大多数だが、日本チームは15勝26敗4引分け、11勝18敗4引分け、8勝19敗1引分けの成績だった。相変わらずベースボールにかなわないまでも善戦し、負けても大量点差による惨敗試合が極めて少なくなった。
「韓国のプロヤグ」は1982年に産声をあげた。日本で活躍した白仁天(打者)が帰韓し、83年には新浦寿夫(投手)と福士敬章(投手)が渡韓した。静岡商業の新浦が夏の甲子園(68年)で、求道者のような表情で連投していた姿を今でも憶えている。準優勝だった。高校を中退してジャイアンツに入団した。筆者は甲子園の時からずっと新浦のファンだった。鳥取西高の福士(旧姓松原)は、10年くらい筆者の後輩で、69年ジャイアンツに入団した時から注目していた。彼らが韓国のプロヤグで圧倒的な好成績を収めるニュースに接してニンマリとしたものだ。ヤグは必死に野球に追いつこうとしていたが、当時は力量の差が歴然としていた。
90年代から日韓の親善試合が行われるようになった。ヤグが見る見る強くなった印象がある。韓国チームは5勝8敗3引分けの成績を記録している。筆者の訪韓時には、無等山(ムドゥンサン)の爆撃機と呼ばれた宣銅烈投手や、米国でデビューした剛速球の朴賛浩投手、ライオンキングこと李承燁一塁手らの活躍が大きな話題となっていた。彼らは、「日本の最強選手に勝てる」と評判だった。そして2000年代に入り、両国チームは互角の戦いをしている。
今回のWBCで日本の野球と韓国のヤグを見て、「両者は双子の兄弟のように似ている」とも感じた。しかし、兄弟でも性格や能力が異なるように、「両者は似ていない」とも強く感じた。「形や技術に共通性が大きく、心や精神性に違いが大きい」からだと腑に落ちた。
米国選手と較べると、両国の選手はかなり小粒でスリムだった。しかし、投手陣の抜群の制球力、強い規律と団結力が両チームに共通していた。そのうえで、日本チームでは全員に、次へつなぐ意識が徹底されていて「おれが、おれが」がなく、大リーガーである城島や岩村でさえ下位を打ち、バンドで出塁するというワン・フォー・オールを実践していた。日本の野球は、ベースボールのようにパワーを爆発させる大技は苦手だが、「中技・小技・寝技を織り交ぜて正確で緻密なプレーをし、最後まで粘り強く道を究めるような」日本的進化を実現していることを実証した。
韓国チームについては、その精神力・集中力の強さに目を見張った。そして全ての選手に「不倶戴天のライバル・日本に勝つ魂をこめた気迫」がみなぎり、それが強いプレッシャーとして日本チームに襲い掛かっていた。日本チームは熱く対抗心を燃やしていたが、それを感情であらわにすることなく冷静に終始した。韓国人選手は国のため、日本人選手は自分のためといった違いを感じたが、選手それぞれの誇りをかけた決勝戦の死闘に両国民の多くがしびれた。
日本人は、2~3日間は優勝に歓喜したが、またもとの不況下の閉塞感や、しらけに覆われてしまっている。「野球は野球、不況は不況」と割りきりが早い。韓国人は、「幸福感を与えてくれた英雄たちの団結と一体感を見習えば、経済危機を克服できるはずだ」と、勇気を奮い起こしているようにみえる。