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2010/08/27

<トピックス>切手に描かれたソウル 第2回 光化門                                               郵便学者 内藤 陽介 氏

  • 郵便学者 内藤 陽介 氏

    ないとう・ようすけ 1967年東京生まれ。東京大学文学部卒業。日本文芸家協会会員、フジインターナショナルミント株式会社・顧問。切手等の郵便資料から国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を研究。

  • 切手に描かれたソウル 第2回 光化門②

    今年復元された景福宮

  • 切手に描かれたソウル 第2回 光化門③

               72年に発行された記念切手

  • 切手に描かれたソウル 第2回 光化門④

    「独島切手」を貼った手紙

◆ 3回の焼失へて復元された歴史の門 ◆

 光化門(クァンファムン)の復元工事が完了し、8月15日の光復節から公開されているという。光化門は、1394年に李成桂(イ・ソンゲ)が漢陽(ハニャン/現・ソウル)に遷都し、景福宮(キョンボックン)を建設した際に作られた。その後、光化門は1553年の大火で景福宮とともに焼失した。

 さらに、1592年、文禄の役で国王が漢城から逃亡した後、再び焼失してしまった。なお、このときの焼失については、朝鮮王朝の正史『朝鮮王朝実録(宣祖修正実録)』の中で宣祖25年(1592年)4月にも、秀吉軍の入城前に朝鮮の民衆によって略奪・放火されたとの記述があるのだが、韓国人の中には、日本人の手によって破壊されたと思い込んでいる人も多いようだ。

 さて、”倭乱”の後、景福宮と光化門は永らく再建されず、離宮の昌徳宮(チャンドックン)が正殿として使用されていたが、1865年、国王・高宗(コジョン)の父親である大院君が再建し、景福宮は1868年から正殿として復活する。ところが、1896年に国王はロシア公使館へ逃げ込んだことから、景福宮は再び主なき宮殿となり、正殿は慶運宮(キョンウングン、現・徳寿宮/トクスグン)、昌徳宮へと移った。

 1910年の韓国併合後、日本の朝鮮総督府は、景福宮の敷地内に、総督府の庁舎を建設。この結果、敷地内の建物の8割以上が破却され、光化門も取り壊されそうになったが、柳宗悦らの運動により、景福宮の東側に移動して保存されることになった。

 解放後は、1950年の韓国戦争でまたもや焼失したが、朴正熙政権時代の1968年、門上部を鉄筋コンクリートによって再建する工事が開始され、1972年に完成した。

 1972年6月14日に発行された「アジア・太平洋理事会閣僚会議」の記念切手には、再建されて間もない光化門と各国の国旗が描かれている。

 再建された門には、朴正熙がハングルで「クヮンファムン」と揮毫した扁額が架けられていた。切手でも扁額は見えるが、その文字までは確認できない。
 
 今回の復元事業は、1995年に決定された景福宮の復元計画の一環として行われたもので、東宮(トングン)、泰元殿(テウォンジョン)、興禮門(フンイエムン)などの復元が終わった後、2006年から工事が行われていた。

 この機会に門の位置は、王朝時代の位置に戻された。また、扁額も、建立時に忠実に、任泰瑛の筆跡を復元したものが新たに掲げられたそうだ。

 なお、復元工事が開始された2006年は盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の時代だったこともあって、これらの「修正」は、朴正熙(パク・チョンヒ)時代の功績を否定したい左派政権の意向を汲んだものとの憶測もよんだ。

 ところで、韓国の切手や郵便に関心のある人間にとって、光化門といえば、門そのものよりも、門から世宗路を南に下り、鍾路との交差点を曲がってすぐのところにある光化門郵便局の方に馴染み深い印象がある。

 光化門郵便局は明洞の中央郵便局に次ぐ規模の郵便局で、僕は、2004年1月に、「独島の自然」と題する切手が発行されたとき、この郵便局に並んで切手を買ったことがある。

 当日、オープンに合わせて、9時少し前に郵便局にたどり着くと、局の中には行列が連なっているほか、日韓両国のメディアがさかんに取材を行っていた。

 僕も局内の風景などをそそくさと撮影し、あわてて、整理券(番号は128番だった)をもらって行列に並ぶことにした。

 最初、メディアは切手の発売風景を熱心に撮影しているものだと思っていたが、ふと気がつくと、行列の先頭に近いところで、緑の韓服姿の男性が日本を非難する横断幕を掲げてなにやら演説をぶっている。

 横断幕には、独島は韓国の領土であることを強調し、日本を非難する文言が記されていた。

 小泉首相(当時)の”妄言”を非難するためか、口の部分に×印を付けた小泉氏の顔写真も掲載されていた。民族主義団体、活貧団の関係者だそうだ。

 彼はこの日、「独島切手」を貼った小泉首相宛の抗議書簡を発送したという。

 もっとも、活貧団の関係者はマスコミのカメラが向いていると熱弁を振るうのだが、カメラが別の方向を向くと途中でも演説を中断する。また、カメラが近づくと演説を再開するといった具合で、マスコミ向けパフォーマンスの色彩が濃いように見えた。心なしか、行列の人たちも「またやってるな」といった感じで冷ややかな視線を向けていたようだ。

 中には、愛国心に溢れた人もいたのかもしれないが、話題の切手だから買っておこうかと気楽な気持ちで出かけてきた人のほうが多かったようで、全体にまったりとしたムード。デザインが綺麗だったため、制服姿のOLもちらほらといた具合で緊張感はゼロだった。

 僕も「チョッパリ(日本人に対する蔑称)何しに来やがった」ぐらいの罵声を浴びて、ぶん殴られるかもしれないと身構えていたが、誰からも何も言われず、無事に切手を買うことができた。

 日本の総務省(当時)は「竹島の切手を貼った郵便物は郵送しないことも検討する」と話していたので、日本宛に切手を貼って数通、送ってみたが、全部無事、配達された。わざわざ書留で、いやでも郵便局員の目に触れるように”工夫”してみたのだけれど……。