韓日間には、多くの民間団体の交流があった。最も長く活発な交流を行っている民間団体として、国際青年会議所(JCI)の加入メンバーである韓国青年会議所と日本青年会議所の交流が挙げられる。
社団法人韓国青年会議所は1951年に設立し、公益社団法人日本青年会議所は1949年に設立した。両国の青年会議所の活動始点にみられるように、両青年会議所は60年という長い交流のなか韓日の経済、文化、社会など各分野で多くの活動を行ってきた。
韓国青年会議所は今年で創立60周年となり、人生で言えば還暦を迎える。その出発は、韓国戦争の戦線が中国共産軍の介入によって韓国中部地方に及び、国家の明日を期待できない暗澹とした時期だった。
国際青年会議所は1915年に米国のミズーリ州・セントルイス市で青年経済人によって組織し、スタートした。国際的な思考と交流を基盤にした地域社会発展への寄与とともに、より良い未来の指導者になるよう自己開発に励む青年たちに対し、様々な機械を提供する国際的指導者養成団体だ。現在、世界110カ国で約17万人の会員が活動しており、韓国の会員は1万6000人。日本は3万5000人、米国は2万人。日本は会員数で1位、韓国は3位だ。
韓日の地方都市の青年会議所は、個別交流を活発に行っている。姉妹青年会議所を締結した都市は、116都市に達した。初めて締結したのは韓国の水原市と日本の福井市で、1964年11月23日。ソウル青年会議所と東京青年会議所、釜山青年会議所と福岡青年会議所、全州青年会議所と豊岡青年会議所の締結は代表例に挙がる。それらは両都市の子どもたちの絵を相互に展示する事業を通じて、子どもたちの親善と友情及び未来の両国関係の発展に寄与した。
大都市の公害問題の解決にも積極的に参加した。アジアの21都市の代表が東京に集まり、地球的問題に関して討論と発表を行った。筆者もソウル市の代表として参加し、二酸化炭素ガス問題を提起した。東京青年会議所の主管で開かれた同会議は、ソウル青年会議所の参加によって相互理解に大きな力を果たした。
また、韓日経済文化交流青年会議を両国で毎年開催し、特に韓国の子ども聾唖演奏団が日本各地で演奏。身体しょう害者に対する理解を高め、日本の市民に感動を与えたことは、両国の青年会議所の交流に大きな意義をもたらした。
経済関係の交流については両国経済の理解に必要なセミナーを頻繁に開催し、日本企業の韓国進出に伴う投資相談や技術提携問題に取り組んだ。
筆者が日本の投資企業のCEOとなったのは日本青年会議所の会員だった日本興業銀行の当時取締役の友人の要請で、赤字企業の再建を担当。黒字企業に転換したのは、青年会議所の運動をともにした韓日交流の事例だ。
青年会議所の会員資格は40歳までだが、両国の会員はその国の各界各層で活動・交流しながら協力している。
韓国で4大経済経済団体の一つである全経連会長を歴任した姜信浩会長、もう一つの団体である韓国貿易協会の会長を歴任した具平会会長などは青年会議所の出身で、両国の経済交流の協力を助けた。また、日本の経済同友会代表を歴任した牛尾活朗会長からも、多くの助言を受けた。
政治界にも青年会議所の出身は多く、韓日議員連盟を通じて交流している。韓日協力委員会の日本のパートナー、日韓協力委員会会長の中曽根康弘・元首相と麻生太郎・元首相も日本青年会議所の出身であり、青年会議所のOBメンバーだが両国の交流で大きな役割を果たしている。
哲学者スピノザ(Spinoza)の「明日に地球が滅亡しても、今日りんごの木を一本植えよう」の言葉を思い、韓国青年会議所は韓国戦争を克服。日本青年会議所は太平洋戦争の戦禍のなかで国家再建の活動を行ってきた。
日本は東日本大震災を克服するであろうし、韓国は「国境を超えて、兄弟になることができる」という国際青年会議の信条を信じている。両国青年会議所の交流はさらに拡大するだろう。