◆74年8月15日開通・日本の協力受け建設◆
8月12日付の本紙1面に「旧ソウル駅が複合文化施設に」という記事が出ていた。
ソウルには3つの“ソウル駅”がある。すなわち、日本統治時代の1925年に建てられ、前述の記事に取り上げられた旧駅(施設名は「文化の駅ソウル284」)、2004年にKTX(韓国高速鉄道)の開業にあわせて開業した現在の新駅、そして、地下鉄1号線の“ソウル駅”駅である。地下鉄の駅は、“ソウル駅”までが駅名なので、ちょっとややこしいのだが、一般には、地下ソウル駅と呼んで地上の駅と区別する人も多いようだ。
地下ソウル駅は、地下鉄1号線の開通と同時に開業した、韓国最初の地下鉄駅のひとつだ。ソウル市の地下鉄建設計画は、1969年10月、交通部長官に就任した白善燁の下でスタートした。
韓国戦争の英雄であった白は、60年に退役し、台湾・フランス・カナダの大使を歴任した後、ほぼ10年ぶりに帰国して交通部長官に就任したが、帰国早々、ソウル市内のバスの殺人的な混雑を体験して、交通事情の改善に本気で取り組む決意をしたという。
白は、日本をモデルにした地下鉄建設を考えたものの、長官就任当初は65年の日韓国交正常化から日も浅く、日本に技術協力を要請しづらい雰囲気があったようだ。ところが、70年3月、いわゆる「よど号」事件が起こり、白も現場で無血解決にむけて尽力したことで、白と日本政府関係者との間で個人的な友情が育まれた。そして、事件処理のために訪韓していた日本の運輸大臣・橋本登美三郎が帰国に際して「お返しと言ってはなんですが、なにかお手伝いできることがあれば申し付けてください」とあいさつしたのを受けて、白は、地下鉄建設への協力を要請。橋本の快諾を得る。
70年7月に日韓経済閣僚会議が開催されると、橋本は白との“約束”どおり、鉄建公団の角本良平を団長とする地下鉄建設のための調査団をソウルに派遣。建設計画の策定に向けて具体的な作業が開始され、71年4月、工事が開始されている。もっとも、白自身は、70年末に済州島からミカンを運んできた船舶が過積載で沈没したことの責任をとって辞職してしまったため、地下鉄工事そのものには関与することはなかった。
さて、ソウルの地下鉄1号線は、当初、ソウル西郊の清涼里駅(国鉄の中央線、京春線などの始発駅)から東大門~鐘路を経てソウル駅に至る区間で開業した。
当時は、現在と比べるとソウル市内の交通量も少なかったため(バスの殺人的な混雑の要因は、本数の少なさにもあった)、工事は道路を地面から掘り下げ、後からフタをする箱型工法で進められた。このため、トンネルを掘り進めるスタイルに比べて、低コストの工事となっている。
その一方で、総額272億円の地下鉄車両(186両)の導入をめぐっては、73年、三菱商事・丸紅・三井物産・日商岩井の日本商社連合が、岸信介をはじめ日韓両国の実力者にリベートを支払うため、輸出価格を1両につき3000万円以上も水増しして納入したとのスキャンダルも起こっている。
もっとも、このスキャンダルは、77年2月、アメリカに亡命した元KCIA部長の金炯旭の発言によって明るみに出たもので、1号線の開通時には、このことを知るものはごくわずかであった。
ともあれ、地下鉄工事は順調に進み、1974年8月15日の光復節を期して、鷺梁津(当時は国鉄との相互乗り入れ駅であった)で開通記念式典が行われ、これにあわせて記念切手も発行されている。
当日は、朴正煕大統領も、南山の国立劇場で開催された光復節記念式典に出席した後、開通式典に出席する予定となっていた。しかし、朝鮮総連の指令を受けた在日韓国人、文世光による狙撃事件で大統領夫人が亡くなったこともあり、大統領が式典に出席することはなかった。