9月15日のソウル(と他の都市)の大停電にはびっくりした。ちょうど、日本でもこの夏は電力が足りなくなるかもしれないと節電に励んでいただけに、あらためて、電気というものの大切さを思い知らされた気分だ。
そんなことを考えながら、ソウルの“電気”に関係する切手がないかと探してみたら、1987年に発行された「電灯100年」の1枚が出てきた。
切手は、景福宮の香遠亭をバックに、電球と100の字を組み合わせたデザインだ。
香遠亭は、朝鮮王朝最後の王(在位1863~97年)で大韓帝国最初の皇帝(在位1897~1907年)であった高宗が、1867年に乾清宮(高宗はここに閔妃と住んだ)を建造した際、その南側に池を掘り、池の中央の島に建てた2階建ての建物だ。乾清宮とは酔香橋でつながっており、高宗は政務の間にここでの散歩を楽しんだという。切手にも、橋の一部が見える。
さて、香遠亭が電灯100年の記念切手に取り上げられたのは、この建物が、1887年に朝鮮半島で初めて電灯がともった場所だからである。
香遠亭に設置された電灯は、米国のエジソン電灯会社のもので、池の水を利用して蒸気機関を回して発電した。
池の水を使うのでロウソクよりもコストが安いことに加え、1884年の甲申政変など、当時の政情不安の中で高宗が安全確保のために照明を求めたということも、香遠亭が最初の電灯をともす場所として選ばれた理由とされている。
甲申政変は、金玉均や朴泳孝ら開化派の独立党のメンバーが、日本に倣った近代的立憲君主制国家の樹立を目指し、外戚の閔氏や清朝とのしがらみで政治の実権を掌握できていなかった高宗の承諾の下で起こしたクーデターだったが、清朝の介入により失敗に終わった。
事件に連座して処刑されたメンバーの中には、日本の明治維新の成果を詳しく調査・研究するため、1881年に日本に派遣された紳士遊覧団の一員だった洪英植も含まれていた。これ以前にも、1876年には修信使(使節団)が日本に派遣され、近代文物と世界情勢の概要を朝鮮に紹介しているが、日本で最初の電灯がともったのは修信使が帰国した後の1878年のことだったから、あるいは、紳士遊覧団が電灯の存在を朝鮮にもたらしたのかもしれない。
ところで、朝鮮で最初に用いられたエジソン電灯会社の電球には、京都の八幡男山の竹を炭化したフィラメントが使われていた。
1879年、発明王エジソンは、綿糸に煤とタールを塗って炭化させたフィラメントを使い、45時間輝く白熱電灯の製作に成功したが、商品として売り出すには耐久時間が短すぎたため、世界中から6000種類もの材料を取り寄せて実験を繰り返した。その結果、研究室にあった扇子の竹でフィラメントを作ったところ200時間ともったため、全世界1200種類の竹で実験を行い、1880年、八幡男山の竹に辿りついたというわけである。
八幡の真竹で作ったフィラメントの電球の寿命は2450時間にもおよび、電球の実用化に大きく貢献。その後、1894年にセルロースのフィラメントが開発されるまでの間に、八幡の竹を用いた白熱電球が毎年2000万~3000万個、世界各国に輸出された。もちろん、香遠亭のふたつの電灯も、その中に含まれている。
こうして、韓国科学史にその名を残した香遠亭の電灯だが、発電機の排水によって池の水が温まり、池の魚が死んでしまうという副作用もあった。
当時の朝鮮では、魚が死んで浮かび上がることは、国が滅びる凶兆と考えられていたため、宮廷は大騒ぎになったという。
はたして、電灯ともゆかりの深い日本が大韓帝国を併合するのは、それから23年後の1910年のことである。