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2012/02/17

<トピックス>切手に描かれたソウル 第19回 「KBS(韓国放送公社)」                                                 郵便学者 内藤 陽介 氏

  • 郵便学者 内藤 陽介 氏

    ないとう・ようすけ 1967年東京生まれ。東京大学文学部卒業。日本文芸家協会会員、フジインターナショナルミント株式会社・顧問。切手等の郵便資料から国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を研究。

  • 切手に描かれたソウル 第19回 「KBS(韓国放送公社)」 

    韓国放送50周年記念切手

◆1972年設立、73年公社体制に・76年ソウル汝矣島(ヨイド)に新社屋◆

 2月16日は、日本統治時代の1927年にKBS(韓国放送公社)の前身にあたる社団法人・京城放送局(1932年に京城中央放送局に改称)が開局してから85周年だという。ちょっと半端な年回りだが、昨年末には一挙にテレビ局が4局開局したこともあるので、KBSについて取り上げてみたい。

 世界最初のラジオの正式放送は、1920年11月、米ピッツバーグのKDKA局による大統領選挙の結果放送であるとされている。ちなみに、日本では、1925年に行われた、社団法人東京放送局(現在の日本放送協会の前身)の仮スタジオ(東京・芝浦)からの放送が最初である。

 日本統治下の朝鮮では、総督府逓信局が1924年2月にラジオ放送に関する調査・研究を開始し、同年11月には実験放送を行った。逓信局の実験放送は日本語だったが、翌12月の朝鮮日報社による実験放送は韓国語で行われている。その後、逓信局による韓国語の実験放送などを経て、1926年2月、社団法人として京城放送局創立準備委員会が設立された。この準備委員会が母体となって、1927年1月、京城放送局が試験放送を開始。同年2月16日に本放送開始となったというわけである。

 当初、放送内容は日本語と韓国語の混成であったことに加え、聴取料も高額であったことから、受信契約は伸び悩んでいたが、1931年4月、日本語の第1放送と韓国語の第2放送に分離したことから在韓日本人世帯を中心に受信契約が増加した。ただし、このことは韓国人リスナーが少なかったということではなく、彼らの多くは、食堂や喫茶店、集会所などでラジオを聴いていたという。また、現在の韓国語には日本語経由の語彙が相当数含まれているが、ラジオ放送がその普及に果たした役割は無視できない。

 1945年の解放後、京城中央放送局を経営していた朝鮮放送協会も南北に分割され、米軍政下の南側の組織は1948年の大韓民国成立に伴い、大韓放送協会(国営)へと改組される。一方、ソ連占領下の北側では京城中央放送局からの中継放送が廃止され、現在の朝鮮中央放送が設立された。

 発足当初の京城放送局の所在地は京城府西大門区貞洞町1-10。現在の地番表示ではソウル特別市中区貞洞にあたり、もとは徳寿宮の懿孝殿があった場所だが、懿孝殿は日本統治時代の1921年頃、昌徳宮に移転されたことが最近になって確認された。なお、昌徳宮では、懿孝殿ではなく、懿老殿と呼ばれているが、これは、「孝」と「老」を誤読したためと考えられている。

 中央放送局は韓国戦争中に一時、大田、釜山へ避難したが、1953年6月にソウルに復帰。その後、ソウル市内の南山に移転し、跡地には徳寿初等学校が建てられた。現在、初等学校の敷地内には、ここに京城放送局があったことを示す石碑がある。ちなみに、初等学校隣は救世軍本部である。

 その後、1970年代に汝矣島・軍用飛行場跡地の再開発計画(1975年には現在の国会議事堂が建設された)に応じるかたちで、1976年11月、現在の場所(地番表示でいうと、ソウル特別市永登浦区汝矣島洞18)に新社屋が建設された。これに先立つ1973年3月、国営放送局から現行の公社体制に改組されている。

 1977年に発行された「韓国放送50周年」の記念切手は、完成後間もない放送センターを取り上げたものだが、周囲にはほかに高い建物などがなく、汝矣島の開発が始まったばかりの時代であることがよくわかる。

 KBSに続き、三大ネットワークのSBS、MBCも汝矣島に本社を置いたので、汝矣島はソウルにおける放送産業のメッカとなったが、2004年、SBSが本社・放送センターを陽川区木洞へ移転。さらに、MBCも麻浦区上岩洞への本社移転を計画しており、これが実現すると汝矣島にはKBSのみが残ることになるという。