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2012/03/16

<トピックス>切手に描かれたソウル 第20回 「独立門」                                                 郵便学者 内藤 陽介 氏

  • 郵便学者 内藤 陽介 氏

    ないとう・ようすけ 1967年東京生まれ。東京大学文学部卒業。日本文芸家協会会員、フジインターナショナルミント株式会社・顧問。切手等の郵便資料から国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を研究。

  • 切手に描かれたソウル 第20回 「独立門」 

    1955年に発効された光復10周年記念切手

◆1897年11月完成、清朝からの独立を記念◆

 2月21日午後8時頃、ソウルの独立門交差点付近の高架道路で、観光バスが対向車の乗用車と正面衝突する事故が発生。バスに乗っていた日本人14人が軽傷を負ったほか、乗用車の運転手の男性が脚を骨折するなど韓国人3人が重軽傷を負う事故があった。独立門の交差点から義州路を北上していけば、5つ星ホテル、グランドヒルトンは車ですぐの距離にあるから、観光バスは同ホテルにでも戻る予定だったのだろう。

 独立門の周辺の観光スポットとしては、西大門独立公園の独立門・刑務所博物館が有名といえば有名だが、“日帝時代”を糾弾するような展示をしている場所なので、バスツアーでソウルに来る日本人観光客が立ち寄るとは考えにくい。

 独立門は、高さ14・28㍍、幅11・4㍍の御影石の門で、フランス・パリの凱旋門を模して作られた。定礎は朝鮮王朝末期の1896年11月21日で、大韓帝国となった直後の1897年11月20日に完成した。

 このことからもわかるように、独立門は、1910年に始まる日本の植民地支配からの独立を記念して建立されたものではない。

 長年にわたって清朝を宗主国とし、事実上の鎖国体制を採ってきた朝鮮朝鮮は、1876年に日本の圧力に屈して日朝修好条規を結んで開国。その後、列強諸国の圧力に対して、清朝の属国としての地位から脱して近代独立国家の建設を目指すべきだという勢力(開化派)と、清朝との関係を維持・強化することで危機を脱すべきと考える勢力(事大派)が対立するようになる。

 こうした朝鮮国内の対立は、朝鮮半島の権益をめぐる各国の対立ともリンクし、1894年には日清戦争を引き起こすことになる。日清戦争は、朝鮮での農民反乱の鎮圧をめぐる両国の対立が直接の発端となったことにみられるように、朝鮮に対する清朝の宗主権を認めるか否かというのが最大の焦点であった。

 結局、戦争は日本の勝利に終わり、清朝は朝鮮に対する宗主権を放棄して朝鮮が独立国であることを承認。朝鮮からの朝貢などは廃止された。もちろん、朝鮮半島から清朝に手を引かせたのは、その後、日本が朝鮮半島を勢力圏内に収めるための布石であったわけだが、その点につてはここでは深入りしない。

 さて、清朝の属国ではなくなったことを受け、朝鮮ではいつまでも属国の首長である“国王”を名乗るのはおかしいということになり、国王を皇帝とし、国号を大韓帝国と改めた。

 その一環として、ソウル4大門の一つで、清の使節を迎えるための門として迎恩門とも呼ばれていた西大門を破壊し、清朝への服属のシンボルであった大清皇帝功徳碑などを破壊し、その隣に建てたのが独立門だった。その建設費用は、開化派の団体である独立教会が中心となり民間の浄財を募り、新生大韓帝国の臣民が独立をお祝いしている。

 このように、独立門は日本からの独立を記念して建てられたわけではなく、清朝からの独立を記念して建てられたものであり、間接的には、日清戦争での日本の勝利を記念する門とみなすことさえできる。そう考えると、独立門こそ、日韓友好の記念碑として広く紹介されてもよさそうなものなのだが、実際には、“独立”という単語に引きずられて、日本の植民地支配からの解放を記念して建てられた門だと誤解する人が多いのは残念なことである。

 1955年に発行された「光復10周年」の記念切手が、太極旗、独立門と断ち切られた鎖(植民地支配からの解放を示す)を組み合わせたデザインとなっているのは、そうした誤解を助長するものであり、国家の名において発行される切手としては好ましいものとは言えない。もちろん、切手が発行された当時は、独立門が日本統治時代以前から存在してきたことを知っている韓国人も多かったろうが、時代とともに、日本時代を知らない世代が増えていくことで、誤解が定着してしまう。

 ちなみに、切手では、門の手前にある石柱もしっかりと描かれているが、これは旧迎恩門の残骸である。