◆75年8月に完成、東洋一の規模誇る◆
今月11日の総選挙はセヌリ党が過半数を獲得する予想外の粘りを見せて話題となったが、今回当選した議員が国会開会に合わせて登院することになる汝矣島の国会議事堂は、セヌリ党の非常対策委員長として選挙の陣頭指揮を執った朴槿惠の父、朴正熙の時代に建設された。
韓国の国会は、米軍政時代末期の1948年5月31日の開院当初は、旧朝鮮総督府の建物を利用した中央庁舎で行われた。
その後、1950年6月に朝鮮戦争が勃発し、ソウルが北朝鮮の朝鮮人民軍によって占領されると、国会は大邱の文化劇場(同年7月27日から8月17日まで)、釜山の文化劇場(同年9月1日から10月6日まで)へと移転する。
ちなみに、開戦2週間前の6月10日、ソ連の政府機関紙『イズベスチア』には「8月5日から8日の間に、南北朝鮮を通ずる総選挙を実施し、15日にソウルで統一国会を開くであろう」との記事を掲載しており、北朝鮮による南侵(の可能性)をほのめかしている。
9月28日、韓国国連軍がソウルを奪還すると、10月7日から11月26日まで、国会は、再びソウルの中央庁舎で開催されるようになる。その後、1950年12月から翌1951年1月にかけて、国会は市民会館(日本統治時代の旧京城府民館で現・ソウル特別市議会議事堂)で開催されたが、中国人民志願軍の参戦により戦況が悪化すると、国会も再び釜山に移り、文化劇場(1951年1月4日から同年6月11日まで)、慶尚南道庁舎(旧武徳殿。1951年6月27日から1953年8月14日まで)が議事堂として使われた。
1953年7月27日の休戦を経て、8月15日にソウルへの再遷都が実現すると、1954年5月末まで中央庁が議事堂となったが、その後は、市民会館が改修されて議事堂として使用された。
なお、1960年から61年にかけての第2共和国の時代には、韓国の国会は二院制で民議院と参議院があったのだが、参議院の議場は民議院の市民会館からも近い大韓公論社に設けられた。
現在の汝矣島の議事堂は、光復30年にあたる1975年8月に完成した。
現在でこそ、汝矣島は、国会議事堂やKBS、株式市場、銀行などが立ち並ぶオフィス街となっているが、日本時代の飛行場が1958年に閉鎖された後は、開発から取り残されていた。議事堂は、その汝矣島の再開発の手始めとして、島の西端に建設されたというわけだ。
議事堂本館の建築面積は約8万1300平方㍍。単一の議事堂建築としては東洋最大の大きさだという。
建物の周囲を囲む花崗岩の八角柱24本は二十四節気を象徴するもので、ドーム状の屋根は、国民の多様な意見から討論によって一つの結論を出す議会制民主主義を象徴するものとされている。
本会議場の議席は、将来の統一により議席が拡大することを想定して最大400議席まで拡充可能な構造になっているほか、憲法改正により二院制が導入された場合には、現在の予算決算特別審議会会議室が参議院(第二院)の議場に当てられることになっている。
汝矣島が新議事堂の立地に選ばれた理由はいろいろと考えられるが、当時の朴正熙政権には、国会前での反政府デモに備えて、議事堂を市内中心部から動かしてしまいたいとの意図もあったといわれている。泉下の元大統領も、自分の娘が、よもや汝矣島の議事堂を足掛かりに青瓦台を目指す日が来ることになるだろうとは思いもしなかったに違いない。
なお、汝矣島の国会議事堂を描く切手としては、1975年の議事堂完成時の記念切手が有名だが、個人的には、1998年に発行された「国会開院50周年」の方が、建物としての美しさをうまく表現できているように思う。
いずれにせよ、第19代国会に議員として登院することになる選良諸氏には、立派な建物にふさわしい討議を期待したいものだ。