◆1898年完成・純粋ゴシック様式の大聖堂◆
ソウルを代表するキリスト教の教会建築といえば、なんといっても、韓国最初のレンガ聖堂として史跡第258号に指定されているカトリックの明洞聖堂だろう。
一般に、韓国におけるカトリックの歴史は、1784年、外交使節の一員として北京に派遣された李承薫が、かの地で教理を学び、洗礼を受けて帰国したことにはじまるとされている。ただし、李承薫が最初に礼拝所を建設したのはソウルではなく、平壌だった。余談になるが、戦前までの平壌は朝鮮半島の中でも最もキリスト教の盛んな地域の一つで、かの金日成も幼い頃、祖母の康盤石に連れられて教会に通ったことがあると回想録の中で述べている。
朝鮮王朝の下では、“天主教(=カトリック)”はながらく邪教として弾圧されていたが、1876年の開国に伴い、欧米諸国との外交上の必要から、キリスト教の禁止は解除された。この結果、韓国内でも、新たにプロテスタントの宣教師も加わって新旧キリスト教の宣教が本格化。朝鮮王朝末期の1890年から1910年にかけて、カトリックとプロテスタントを合わせた全クリスチャン人口は1万7842名弱から24万869名へと増加する。
こうした時勢を反映して、1882年、フランス人のプルラン司教は明洞に聖堂の建設を計画。現在の明洞聖堂の土地の一部を購入する。
司教は、まず、この地に私塾を設けて予備神学生を要請しながら機会をうかがい、1886年に韓仏修好条約が調印されると、翌1887年5月、私塾の敷地に隣接する土地も購入して、現在の聖堂の敷地全域を確保。同年秋以降、信徒を動員して整地作業に乗り出した。ところが、朝鮮王朝は首都の風水に並々ならぬこだわりを持っており、丘を削っての整地作業は地脈を乱すとして反対したため、工事は難航。その心労もあってか、1890年にはプルランも亡くなる。
プルランの後を継いで赴任したトゥセは苦心の末に聖堂建設に対する宮廷の理解を得ることに成功し、1892年5月、国王(高宗)隣席の下、ようやく聖堂の起工式が行われた。
聖堂の設計と工事の実務的な指揮監督はフランス人司祭のコステが担当することになったが、今度は、1894~95年に日清戦争が勃発し、日清両軍が朝鮮を舞台に戦闘を展開。戦後の1896年には建設責任者のコステが亡くなるというアクシデントが重なり、聖堂建設は遅々として進まず、1898年5月、コステの後任となったプワネル神父の指導の下、ようやく工事は完了した。
完成した聖堂は、装飾的な要素を排除した純粋なゴシック様式で、上から見るとラテン十字架形になっている。本堂の高さは23㍍、鐘塔の高さは45㍍。聖堂内は三廊式になっており、前方の祭壇には中心に聖母子像が、向かって右側に聖ベネディクト像、左側に韓国最初の司祭、金大建の像が祀られている。なお、祭壇の下は地下聖堂となっていて、朝鮮王朝の弾圧で殉教した聖人5名をはじめとする聖骸が安置されている。教会内で目を引くステンドグラスは、もとはフランスのベネディクト修道会の修道士によって制作されたが、傷みが激しくなったため、1982年、李南奎によって復元された。
ドラマの「美しき日々」や「美男ですね」などに登場し、日本人にもなじみの深い裏庭のマリア像は、1948年、聖堂の完成50周年を記念してフランスから奉献されたものである。
明洞聖堂では、毎年、クリスマスには盛大なミサが行われるが、多くの善男善女が手にキャンドルを持ち、賛美歌を歌うさまは壮観だ。もともとクリスマスは“キリストのミサ”が語源なのだから、今年のクリスマスは、東アジア随一のキリスト教国を代表する教会のミサを覗いてみるのも悪くはないかもしれない。