◆世宗路に68年建立・日本の”運気”を防ぐため造成◆
先日、“市民ランナー”として活躍する川内優輝選手が自己ベストを更新し、アジア勢最高の4位に入賞した。スポーツ競技だから結果に関心が集中するのは当然だが、コースが魅力的であれば、なお興味もわく。
その意味では、光化門前の李舜臣将軍像前から出発し、修復工事完成間近の南大門(崇礼門)、清渓川、鍾路、オリニ大公園(ソウルを代表する桜の名所)、ソウルの森を経て、蚕室のオリンピック競技場でゴールするソウル国際マラソンは、街歩きのコースとしてもなかなか魅力的だ。
ところで、マラソンのスタート地点になる世宗路の李舜臣将軍像は、1968年4月27日に建立された。
朝鮮王朝時代のソウルのメインストリートは光化門=世宗路=南大門と続く道で、現在の光化門=世宗路=太平路=南大門道は、日本統治時代、龍山に駐屯していた日本軍が非常時に景福宮へと迅速に移動できるよう、新たに造成された。
このため、朴正熙政権下で、かつてのメインストリートを復元する計画も持ち上がったが、風水地理学者たちから「世宗路と太平路の間が空き、南の日本の気運が強く入ってくる。これを制御する必要がある」との意見が出されたという。
そこで、大統領は、「朝鮮王朝の道路の中心軸を復元するのは莫大な資金がいる」と拒否した上で、「代わりに世宗路の交差点に、日本が最も恐れる人物の銅像を立てよ」と指示。
これを受けて、政府の参加団体として愛国先烈彫像建設委員会が組織され、ソウル新聞社との共催で、韓国彫刻界の重鎮、金世中によって建てられた。
将軍の存命中に作られた肖像がないため、刀は顕忠祠にある李舜臣将軍の儀式用刀をモデルに、鎧は金殷鎬が1952年に制作した歴史画をもとに考証を加えて、意匠が決められた。
また、制作予算が限られていて純粋な青銅を調達しきれなかったため、廃船のエンジンや使用後の薬莢などの金属を再利用し、青銅固有の色を出すために着色するなどの苦労もあったという。
ところが、完成した銅像については、当初から、史実と照らして問題があるとしてさまざま批判が寄せられてきた。①将軍が右手で刀を持っているのは、刀を自分で抜けない、すなわち、降参して刃物をおさめるという意味でふさわしくない、②刀の形状が日本刀に似ている、③鎧が中国式、④将軍の顔が実際とは違う、などである。
このため、1977年には現在の銅像を撤去して、新たな銅像を建てる計画も持ち上がったが実現せず、2010年に行われた本格的補修の際にも、新像建設を主張する声が上がった。
こうした批判に対して、ソウル市は「李舜臣将軍像は43年の歴史を持つ芸術作品であり文化財的価値がある。作り直す理由はない」と一蹴。
銅像の顔が似ていないという主張については、「李舜臣将軍の国家標準画像は、銅像が制作された後5年が過ぎてから指定されたため」と説明している。ちなみに、将軍の国家標準画像は、1975年に発行された100ウォンの普通切手にも取り上げられているが、たしかに、世宗路の銅像とはかなり雰囲気が違う。
なお、李舜臣将軍像をめぐる論争については、韓国美術界の一部から「銅像は史料復元ではなく芸術彫刻であるだけに、その人物が持った歴史的な意味を強調するためにやや変形することは大きな問題ではない」という声も出ているという。筆者も同感である。