◆来月4日に復元式典・韓国伝統文化のシンボル的存在◆
韓国国宝第1号の南大門(正式名・崇礼門)の復元工事が今月30日にようやく完了する見通しとなり、来月4日、復元記念式典が行われるという。
もともと、崇礼門は漢城(現ソウル)に遷都した李成桂が都城を築いたことに伴って、1398年に完成した。その後、世宗時代の1448年と成宗時代の1479年に改築され、2階建てとなった。これは、ソウル南境の冠岳山が炎の形に似ているため、山からの火気を妨げようという風水思想による。
1907年、皇太子時代の大正天皇の行啓を機に、ソウル市内の街路整備のため、門の両側に続いていた城壁は撤去されたが、門だけは道路上に残された。
なお、文化財としての崇礼門の価値が注目されるようになったのも日本統治時代のことで、1934年、朝鮮総督府は、これ以上の市街地の開発により門が取り壊されることのないよう、宝物第1号に指定している。
1950年に勃発した朝鮮戦争では、ソウルは計4回、破壊されたが、崇礼門は奇跡的に一部の損傷にとどまり、焼失を免れた。その後、1961年の大規模な解体・改修工事を経て、1962年12月20日、あらためて、現存する韓国最古の木造建築(当時)として、大韓民国の国宝第1号に指定された。
門への立ち入りは、長らく禁止されていたが、2005年5月、門の南側に芝生の広場が造成されて間近に見られるようになり、さらに、翌年3月からは門をくぐれるようになった。
ところが、2008年2月、放火により、石造の門を除いた木造の鐘楼部分の大半が焼失した。犯人の男は、都市再開発事業による家の立ち退きの件で補償額が少ないことに不満を持ち、大統領府や区役所に陳情したが受け入れられなかったため、世間の注目を集めたかったと自供しているが、何とも迷惑な話だ。
その後、復元工事が開始され、当初予定では2012年末までの工事完了だったものが、作業が遅れ、ようやくこのたび工事完了となったというわけである。
ちなみに、復元にあたって、丹青の顔料と接着用の膠または漆は日本製が使われている。このため、一部に批判もあったが、結局、韓国の国産品・技術で代替できないことから、「国宝で実験はできない」との理由で、反対論をおさえたという。
さて、崇礼門は、ソウルのみならず韓国伝統文化のシンボルとして、大韓民国成立直後の1949年7月以来、しばしば、切手にも取り上げられているが、その中から、今回は、1992年に発行された「第21回万国郵便連合会議誘致(決定)」の記念切手をご紹介したい。
万国郵便連合の大会議は原則5年に1度、各国持ち回りで、全加盟国を集めて郵便関係の条約改正について討議する会議で、1994年8月の第21回会議はソウル江南のCOEXを会場として開催された。
その記念切手には、会場のCOEXとソウルのシンボルとしての崇礼門、さらに南山のNソウルタワーが描かれているのだが、タワーを背に崇礼門を望む構図だと、COEXはタワーよりも後ろに見えていないといけない。逆に、COEXから崇礼門の方向を見るのなら、タワーはその間にあるのが本来の配置だ。
もちろん、切手の図案はデザインの都合上、必ずしも現実の地理に忠実である必要はないのだが、ソウルの街歩きをしながら、遠くに見えるソウルタワーを目印にしている経験からすると、ちょっと不思議な気分になるのは筆者だけではあるまい。