◆朝鮮王朝の宮殿、世界文化遺産に◆
今から50年前の1963年11月22日はケネディ大統領暗殺事件があった日だが、韓国では、朝鮮王朝最後の皇太子で、李王家の当主、李垠殿下が56年ぶりに韓国へ帰国するという出来事があった。
李垠殿下は、朝鮮王朝が大韓帝国と改称した1897年、皇帝・高宗の第7皇子として生まれた。
1907年7月、いわゆるハーグ密使事件で父親が退位に追い込まれ、異母兄の純宗が皇帝として即位すると皇太子となったが、同年12月には“日本留学”のため、ソウルを後にした。
1910年の日韓併合後は、日本の王族として皇族に準じる待遇となり、陸軍幼年学校・同士官学校で教育を受けて、1917年、少尉に任官した。
1920年、日本の皇族・梨本宮家の方子妃と結婚。“内鮮一体”のための政略結婚であったが、2人の間には真の愛情が育まれたという。
日本の敗戦後は、1947年には李王(1926年の純宗崩御により身分を継承)の地位を失ったばかりか、日本国籍も失い、邸宅(2011年まで赤坂プリンス・ホテルの旧館として用いられていたことは有名)をはじめ資産の売り食い生活を余儀なくされる。
韓国戦争中の1950年、マッカーサーと会見するために来日した李承晩に、祖国への帰国を要望するも、李承晩は旧李王夫妻の帰国によって自らの地位が危うくなると考え、帰国を歓迎しないと応じたため、李垠殿下は帰国を断念せざるを得なかった。
1959年、李垠殿下は脳梗塞で倒れ、以後、その後遺症に悩まされ、1961年には築地の聖路加病院に入院した。
この間、1960年に李承晩は学生革命によって政権の座を追われてハワイに亡命。混乱の後、1961年に権力を掌握した朴正熙は、翌1962年、李垠殿下の韓国籍を回復させ、方子妃も韓国籍を取得した。
1963年に入ると李垠殿下の容体は悪化し、5月には東京・赤坂の山王病院に入院。このため、朴正熙は李垠殿下夫妻に韓国での生活費や療養費を政府が保証するので、帰国されたしと連絡し、11月22日、李垠殿下夫妻の帰国が実現する。
しかし、重病の床にあった李垠殿下にはすでに意識はなく、ソウルの聖母病院に直行。そのまま、1970年に亡くなった。
一方、方子妃は、昌徳宮内の楽善斎(朝鮮王朝時代、王の妻妾などが、王の死後、余生を過ごした建物)を住居として、趣味で作っていた七宝焼を売るなどして資金を稼ぎ、福祉活動に専念。知的障害児施設の明暉園や知的障害児養護学校の慈恵学校を創設・運営し、韓国の国民から「韓国障害児の母」として尊敬を集め、1981年には牡丹勲章を授与された。
1989年4月30日、妃は87歳の波乱の生涯を閉じるが、その葬儀は韓国皇太子妃の準国葬として執り行われ、日本からも三笠宮ご夫妻が参列された。また、当時の盧泰愚政権は、韓国国民勲章槿賞(勲一等)を追贈している。
2001年12月10日に発行された世界遺産シリーズ第5集の切手は、昌徳宮を題材としたもので、切手本体には、王宮の中心となる仁政殿と公式の執務の場である宣政殿が取り上げられたが、そのシート下部左側の余白には、隣接する昌慶宮側から見た楽善斎の特徴ある屋根がしっかりと取り上げられている。
その本来の性格上、王宮の他の建物とは異なり、楽善斎は丹青(五色の彩色)が塗られていない、質素な外観である。したがって、ビジュアル面だけでいえば、王宮内の数ある建物の中で、楽善斎を取り上げるべき必然性はない。
それにもかかわらず、あえて、仁政殿と宣政殿の切手と並べて、シートの余白に楽善斎が見えるような構図が採用されたのは、やはり、楽善斎から連想される方子妃への感謝の思いがさりげなく表された結果ではないだろうか。少なくとも、僕はそう思いたい。