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2014/03/28

<トピックス>切手に描かれたソウル 第42回 「京城運動場」                                                   郵便学者 内藤 陽介 氏

  • 郵便学者 内藤 陽介 氏

    ないとう・ようすけ 1967年東京都生まれ。東京大学文学部卒業。日本文芸家協会会員、フジインターナショナルミント株式会社・顧問。切手等の郵便資料から国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を研究。

  • 切手に描かれたソウル 第42回 「京城運動場」①

                 第36回全国体典記念切手

  • 切手に描かれたソウル 第42回 「京城運動場」②

    はがき

◆1925年10月開場式・韓国スポーツ史に大きな役割◆

 今月21日、イラク出身で英国在住の建築家、ザハ・ハディドによる宇宙船をイメージさせる複合文化施設「東大門デザインプラザ」がオープンした。

 デザインプラザと隣接する東大門歴史文化公園の場所は、かつて、東大門運動場のあった場所だ。

 東大門運動場のルーツは、日本統治時代に建てられた京城運動場だ。

 運動場は光熙門と東大門(正式名称は興仁之門)の敷地2万2700坪の土地に建造されたが、この場所は、朝鮮王朝時代には治安を担当する下都監(ハドガム)と訓鍊都監(フルリョンドガム)が置かれていた。

 京城府(当時)の岩城土木課長の指揮により着工したのは1925年5月24日のことだったが、日本統治時代のはがきを見ると、運動場の建設は前年(1924年)の皇太子(後の昭和天皇)ご成婚の記念事業の一環だった旨の記述がある。

 運動場はサッカーと陸上ができる多目的競技場で、総工費は15万5000円。総収容人員2万5800人は当時としては東洋一の規模を誇っていた。1925年10月に開場式が行われ、翌1926年3月、こけら落としの試合が行われた。

 京城運動場が完成した1925年は朝鮮神宮がつくられた年でもあったので、同年以降、総合競技大会である朝鮮神宮競技大会(朝鮮神宮奉賛体育大会)が毎年、開かれることになった。

 当初、会場は競技ごとに異なっていたが、1934年以降は、京城運動場を主会場として固定し、野球・サッカー•テニス•陸上•バスケットボールの5種目からなる総合競技大会として「全朝鮮総合競技大会」が開催されるようになった。なお、同競技大会は、1920年に開催された全朝鮮野球大会を第1回として回数を起算しているため、1934年の大会は第15回となっており、1948年に大韓民国が正式に発足した後は全国体育大会(全国体典)と改称され、現在に至っている。昨年(2013年)の大会が第94回となっているのはこうした事情による。

 さて、解放後、京城運動場はソウル運動場と改称されたが、1950年6月25日未明の北朝鮮南侵により韓国戦争が勃発した当日には、第2回学徒護国団体育大会の各種競技決勝戦が行われていた。南侵を知らなかった選手・観客は、正午頃、警察官のアナウンスで緊急事態の到来と競技の中止を知らされ、驚愕しつつ運動場を後にしたという。

 戦争のため、1950年の全国体典は中止され、翌1951年の大会も光州で行われたが、韓国・国連軍がソウルを確保したことを受けて、1952年にはソウル運動場での全国体典が復活した。

 その後、1956年の第37回大会まで全国体典は会場をソウル運動場に固定して行われたが、1957年以降は釜山や大田等の地方都市でも開催されるようになる。それでも、1958~59、61、67~72、74年にはソウル運動場が全国体典の会場となるなど、韓国スポーツ史において大きな役割を果たした。

 ちなみに、1955年10月23日、第36回全国体典の記念切手が発行されたが、この大会もソウル運動場で行われたから、切手に描かれているトラックも同運動場のものとみてよい。

 ソウル五輪に先立ち、1986年に蚕室総合運動場が完成すると、ソウル運動場は東大門運動場と改称される。

 その後も、東大門運動場は、1986年のアジア競技大会、1988年のソウル五輪のサッカー会場などとして使用されていたが、老朽化のため、2007年11月に完全閉鎖され、今回オープンしたデザインプラザを中核とする跡地の再開発事業が進められることになった。