◆解放後の混乱で〝郵便〟も日本を引きずる◆
1945年8月15日、大日本帝国の降伏が発表されると、当時の朝鮮総督であった阿部信行と朝鮮軍司令官の上月良夫は、朝鮮総督府の屋根から日章旗を降ろし、太極旗を掲揚させた。敗戦で日本の朝鮮統治が終了することを意識しての行動だが、法手続き上は、連合軍が進駐まで、朝鮮総督府は従前どおり、朝鮮の治安と社会秩序に責任を負わねばならない。
一方、独立運動家であった呂運亨は、早くも8月15日夜、朝鮮建国準備委員会(建準)を組織して委員長に就任。日本留学を経験した宋鎮禹・曺晩植・金性洙・安在鴻ら知日派を糾合して、日本とも提携の上で独立朝鮮の国家建設を行うとの青写真を描いていた。このため、日本降伏後の政治的空白から朝鮮が無政府状態に陥ることを懸念した朝鮮総督府政務総監の遠藤柳作は呂を呼んで、民衆保護のための協力を要請する。この要請は、あくまでも、遠藤と呂の個人的な関係に基づくもので、法的な裏付けは何もなかったのだが、呂らは、朝鮮総督府から行政権の移譲を受けたと理解(〝誤解〟というべきかもしれない)し、政治犯の釈放などを行う。
9月2日、東京湾に停泊していた米軍艦ミズーリ号上で降伏文書が正式に調印され、その後、連合国側で各地の日本軍の降伏を受理する担当割を決めた〝一般命令第一号〟が発せられ、朝鮮半島は、とりあえず、北緯38度線を境として、北側はソ連が、南側は米国が進駐して日本軍の武装解除と行政機構の接収を行い、軍政を施行するとの方針が発表された。
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