◆59年に国交樹立、韓国系ブラジル人約10万人◆
リオデジャネイロ五輪に関連して、今回は韓伯(韓国=ブラジル)関係の話題を書いてみよう。
第二次大戦中に途絶した日本とブラジルの国交は1951年に回復した。しかし、朝鮮戦争の影響もあって、1948年に独立した韓国とブラジルとの国交樹立は先延ばしにされていた。
また、国交回復に伴い、1953年以降、日本からブラジルへの移民の送り出しも再開され、日本政府の支援もあって、1959年には年間7000人もの日本人移民がブラジルに渡ることになったが、これと伴走するかたちで韓国からブラジルへも小規模ながら移民が渡っていくことになる。
こうした事態を受けて、1959年、韓国とブラジルは正式に国交を樹立した。
韓国政府は、人口の抑制、失業の解消、移民による外貨送金を期待して移民を奨励するため、1962年、海外移民法を制定するとともに、保健社会部(現保健福祉部)内に移民課を設けるなど体制を整えたうえで、ブラジル政府と移民協定を結び、同年12月、17家族92人をブラジルに送り出した。これが、ブラジルにおけるコリアン・コミュニティーのルーツとなった。
現在、ブラジル国内には、サンパウロとフォス・ド・イグアス(パラグアイ、アルゼンチンとの国境地帯に位置する西部の都市で、世界遺産のイグアスの滝にも近い国際観光都市)を中心に約5万人の韓国系人口があると推定されている。ただし、これ以外にも、当初はパラグアイに移住した韓国人とその子孫が国境を越えてブラジルに渡り、定着しているケースもかなりあるので(彼らはブラジル国内では〝韓国出身〟ではなく〝パラグアイ出身〟に分類されるので、統計上は〝韓国系〟にはカウントされない)。実際には〝韓国系ブラジル人〟の数は10万人を超えるともいわれている。なお、経済面では、韓国系ブラジル人は衣料品の製造・販売において大きな影響力を持っているとされる。
1980年代後半、ブラジル経済の停滞が始まると、ブラジルに移住した韓国人の帰国が出始めた。
韓国系ブラジル人は、現地でも、家庭内では韓国語を話し、食事をはじめ韓国の生活様式を維持しているケースが多かったため、第一世代(韓国生まれ)の帰国者の多くは、問題なく帰国後の韓国での生活に順応したが、現地で生まれ育った第二世代の中には、言葉や習慣の違いから、親とともに韓国に渡ったものの、韓国社会になじめないケースも少なくないという。
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