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2017/03/10

<トピックス>切手に見るソウルと韓国 第76回 サムスン創業者・李秉喆                                                         郵便学者 内藤 陽介 氏

  • 郵便学者 内藤 陽介 氏

    ないとう・ようすけ 1967年東京都生まれ。東京大学文学部卒業。日本文芸家協会会員、フジインターナショナルミント株式会社・顧問。切手等の郵便資料から国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を研究。

  • 切手に見るソウルと韓国 第76回 サムスン創業者・李秉喆

    15年8月に発行されたサムスングループの創業者、李秉喆氏の肖像を描いた「現代韓国の人物」シリーズの切手

◆一代で大財閥サムスングループ築く◆

 韓国最大の財閥、サムスン・グループは、先月28日、グループの事実上のトップ、サムスン電子の李在鎔(イ・ジェヨン)副会長が逮捕・起訴されたことを受け、司令塔としてグループ経営を統括してきた〝未来戦略室〟を解体し、系列会社の自律経営体制に移行すると発表。これにより、サムスン・グループは事実上、解体されることになった。

 検察側の見立てによると、グループ内企業の第一毛織工業の大株主だった李在鎔は、サムスン電子株を多く保有するサムスン物産と第一毛織の合併を進めることでグループ内での経営支配を強化しようとしたものの、サムスン物産の株主である米ヘッジファンドの強硬な反対にあった。

 そこで、グループとして、崔順実の財団に255億㌆の資金を拠出し、崔の働きかけを受けた大統領府がサムスン物産の大株主だった国民年金公団に対して影響力を行使。その結果、年金公団が合併に賛成したため、15年7月、サムスン物産と第一毛織の合併が成立したことで、贈収賄事件が成立するという。

 サムスン物産と第一毛織は、いずれも、グループの創業者、李秉喆(イ・ビョンチョル)が設立したが、彼の肖像を描く〝現代韓国の人物〟の切手が、両社の合併とほぼ時を同じくして15年8月26日に発行されたというのも、今にして思えば、何かの因縁かもしれない。

 李秉喆は、大韓帝国末期の1910年2月12日、慶尚南道宜寧郡正谷面でコメ千石の農地を所有する大地主、李纉雨の二男二女の末っ子として生まれた。

 1928年10月、18歳で渡日し、翌29年に早稲田大学専門部政経科に入学したが、31年9月、脚気を患って帰郷。その後、34年10月、父親から事業資金として300石分の土地を譲り受けた。これを元手に、36年3月、李は、鄭鉉庸、朴正源と3人で、日本向け米穀の輸出港だった馬山に協同精米所を設立する。3人は1万㌆ずつ投資し、不足分は朝鮮殖産銀行馬山支店からの借り入れで賄ったという。

 さらに、同年8月、李は日本人経営の日出自動車会社を買収し、新たに購入した10台のトラックとあわせて計20台のトラックで運送業を開始。また、朝鮮殖産銀行馬山支店の融資で土地も買収している。

 ところが、翌37年、日中戦争が勃発し、軍需産業以外への銀行の一般貸出が中断されたことに加え、土地の価格も急落したことから、李は資金難に陥り、土地を売却するとともに、精米所と自動車会社を清算せざるを得なくなった。

 そこで、李は再起を期して、38年3月、資本金3万㌆で大邱に〝三星商会〟を設立する。同商会は、日本の鉄道網を使って朝鮮の果物や乾魚を満洲と北京に輸出する貿易会社で、これが現在のサムスン・グループの原点とされている。

 三星商会は大きな利益を上げたことから、39年、李は朝鮮醸造会社を買収し、醸造業にも乗り出す。しかし、41年末に太平洋戦争が勃発し、酒類は朝鮮総督府による統制の対象となったため、日本統治時代には朝鮮醸造が継続的に利益を上げることはなかった。

 解放後の47年5月、


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