◆334名が戦死、メルボルンに戦争慰霊館◆
私事で恐縮だが、3月末から4月初めにかけて、オーストラリア・メルボルンで開催されたアジア国際切手展に出品者として参加したが、その合間を縫って、メルボルン市内の戦争慰霊館も見学してきた。
戦争慰霊館はメルボルンの街並みが一望できる小高い丘の上にあり、周囲は広大な公園になっている。もともと、第一次大戦のオーストラリアの戦没者を祀る慰霊施設だったが、後に第二次大戦の戦没者や、さらに、朝鮮戦争やベトナム戦争の戦没者も祀られるようになった。内部には、オーストラリアが歴史的に体験してきた戦争に関する資料が展示されている。その中心は、なんといっても両大戦だが、朝鮮戦争についても小さいながら、きちんとコーナーも設けられていた。
第二次大戦後、オーストラリアは対日戦勝国として、広島県・山口県など中国地方を中心に占領軍を派遣していたが、1950年6月25日の朝鮮戦争勃発を受け、同29日、オーストラリア政府は、日本に駐留していたリバー級フリゲート艦「ショールヘイブン」ならびに香港に駐留していたトライバル級駆逐艦「バタアン」の派遣を決定する。
朝鮮近海に到着した両艦は、韓国から避難する米英の民間人を収容するとともに、米軍の上陸を支援するための艦砲射撃を行った。ちなみに、朝鮮戦争における豪海軍の中核となった空母「シドニー」がオーストラリアを出港したのは、8月31日のことであった。
一方、空軍に関しては、1950年6月25日の開戦時、第77飛行中隊が岩国に駐留していた。第77飛行中隊はすでに帰国の準備を進めていたが、開戦により、米第5空軍の指揮下に入り、共産軍と戦った。
ところで、オーストラリア政府は、日本に駐留していた地上部隊、第3連隊を朝鮮の戦場に派遣することに、当初、難色を示していた。当時の第3連隊は、兵員の訓練・装備ともに、直ちに実戦に投入するには、きわめて不十分な状態にあったからだ。このため、まずは第3連隊の中から志願者2000名が日本占領軍から分離され、朝鮮半島に派遣されるとともに、オーストラリア本国でも志願兵の募集が行われた。
オーストラリア軍の戦績としては、まず、1950年9月15日の仁川上陸作戦以後、水原周辺で敗走する朝鮮人民軍と戦い約2000名を捕虜としたことが挙げられる。さらに、10月22~23日には、開城の包囲戦で朝鮮人民軍に大きな打撃を与えることに成功した。
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