今月24日から、茂朱で世界跆拳道(テコンドー)連盟(WTF)主催の世界跆拳道選手権大会が開催される。これに先立ち、6月16日には記念切手も発行された。
今回の大会には、北朝鮮から、張雄国際オリンピック委員会(IOC)委員・国際跆拳道連盟(ITF)名誉総裁、李勇鮮ITF総裁ら32人も参加する予定。跆拳道の国際団体としては、WTFとITF(3派に分裂)があり、北朝鮮主導のITF張雄派に所属する演武団の訪韓は10年ぶり。文在寅政権発足後、初の南北スポーツ交流となる。
跆拳道については、高句麗時代の壁画に跆拳道の型と似たような姿勢をとる人物が見られることから、2000年前にまでさかのぼれると主張する人もいるが、これは、いささか牽強付会の説で、実際には、解放後、近代スポーツとして体系化されたと考えるのが妥当である。
すなわち、日本統治時代に学徒出陣した崔泓熙は、1946年に軍事英語学校(現韓国陸軍士官学校)を卒業し、陸軍少尉として、武術を教えはじめた。
崔は、植民地時代の1918年、北朝鮮・咸鏡北道に生まれ、少年時代に朝鮮の伝統的な武芸であるテッキョン(脚戯)に親しんだほか、青年時代には日本に渡り京都で空手を学んでいる。
こうした経験を活かして、陸軍の武術教官となった崔は、解放後の祖国にふさわしい、民族独自の新しい武道を考案すべく研究し、テッキョンや空手をベースに、1954年までに、新しい武道の基礎的な技術を完成させた。この武道は、1955年、正式に〝跆拳道〟と命名され、1959年には崔が主催していた〝大韓空手道協会〟も〝大韓跆拳道協会〟に改称される。
跆拳道の〝跆〟は、踏む、跳ぶ、蹴る、という足技を、〝拳〟は、突く、叩く、受ける、などの手技を、〝道〟は、礼に始まり礼に終わる人の道、精神を表しているとされる。
その後も崔は陸軍の将官として勤務していたが、1962年、陸軍を退役し、マレーシア大使に転出。これが跆拳道国際化の端緒となった。
1964年、韓国に帰国した崔は、1966年、跆拳道のさらなる国際化を目指して、ソウルに本部を置くITFを設立し、自ら総裁に就任した。しかし、当時の韓国の武道家の中には崔の創設した跆拳道が脚光を浴びることや跆拳道の国際化に不満を持つ者も多く、同年、崔は内部対立から協会の会長を辞任に追い込まれてしまう。
さらに、世界跆拳道本部総本部道場国技院が設立された1973年、崔は東ベルリン事件(東ベルリンの北朝鮮大使館と接触した韓国人が一斉摘発された事件)への関与が疑われ、カナダへの亡命を余儀なくされた。
これに伴い、ITFの本部もトロントに移されたため、同年、韓国内ではソウルに本部を置くWTFが設立。跆拳道の国際団体が並立することになった。
その後、
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