◆忍耐と勇気を象徴する大会マスコット「バンダビ」◆
今月19日、平昌パラリンピックが無事に終了した。いまさらの感はぬぐえないが、やはり、韓国にとっては大きな出来事なので、パラリンピックとその切手についてまとめておきたい。
第二次大戦中の1944年、英政府は、戦争で負傷し脊髄損傷になった兵士の治療と社会復帰を目的に、ロンドン郊外にあったストーク・マンデビル病院内に脊髄損傷科(現国立脊髄損傷センター)を開設。所長のルードウィッヒ・グットマンは、スポーツを治療に取り入れ、パンチボール訓練を導入、1945年からは車いすによるポロやバスケットボール、卓球などを導入する。
こうした前史を経て、1948年7月29日、グットマンはロンドンオリンピックにあわせてストーク・マンデビル病院内で16名(男子14名・女子2名)の車いす患者(英国退役軍人)によるアーチェリー大会を開催。これがパラリンピックのルーツとなった。
以後、同大会は毎年開催され、1952年にはオランダの参加を得て国際競技会へと発展。1960年、イギリス、オランダ、ベルギー、イタリア、フランスの5カ国により国際ストーク・マンデビル大会委員会(ISMGC)が設立され、グットマンがその初代会長に就任。
ISMGCは、オリンピック開催年に実施する大会は、オリンピック開催国でオリンピック終了後に実施する意向を表明する。
これを受けて、ローマ五輪が行われた1960年、ローマで23カ国・400名が参加して国際ストーク・マンデビル大会が開催された。これが第1回のパラリンピックとされている。
ところで、パラリンピックの名称は、当初、IOCがオリンピックと類似の名称を使うことを嫌ったため、単なる愛称という扱いだったが、1985年、IOCはパラリンピックスの名称を使用することに同意(その一方で、オリンピックの名称は禁止)。その際、〝パラリンピック〟の語は、パラ=parallel(沿う、並行)+Olympics(オリンピックス)へと解釈変更された。
こうして1988年、ソウル五輪の後に、〝パラリンピック〟を正式名称とした最初の大会として、ソウルパラリンピックが開催され、61カ国3057名の選手が出場。同大会は、オリンピック組織委員会がオリンピックとパラリンピックを連動させたはじめての大会(オリンピックで使用した会場も使用)となった。
なお、ソウルパラリンピックの記念切手では、英文表示はパラリンピックとなっているが、当時の韓国ではこの語がまだ一般的ではなかったため、ハングルでは〝障碍者オリンピック〟と表示されている。
1989年には、
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