◆「海女文化」として12年に韓国無形遺産登録◆
8月15日の文在寅大統領の「光復節慶祝辞」の文章を読んでいたら、今年は、日本統治時代の独立運動の事例として、1931年の平壌・平原ゴム工場の女性労働者、姜周龍が高さ12㍍の乙密台の屋根に籠城し「女性解放、労働開放」を叫んだ〝高空籠城〟闘争と、1932年の済州・舊左邑での〝海女抗日運動〟が紹介されていた。そこで、今回は済州の海女の話をしてみたい。
素潜りで海産物を採取する漁は、済州では5世紀には行われていたとの記録がある。
当初、海に潜るのは男性が中心だったが、17世紀頃から、素潜りで猟を行う〝潜女〟が多数派になる。その理由としては、女性は男性に比べて皮下脂肪が厚く、体型・体質的に長時間の潜水作業向きであり、それゆえ、沖合での漁は男性、沿岸での潜水漁は女性という男女による分業体制が成立したものと考えられている。
朝鮮王朝の末期には、海女漁は済州の人々の生活に深く根付いており、17~18歳になった女性たちは、家計を助けるため、春になると海に潜るのが習わしだった。1993年の音楽シリーズにも取り上げられた済州の民謡「オドルトギ」は、もともとは翁草の意味だが、春の訪れを意味する表現として「西帰浦の海女は海に潜ったか まだか」と歌われている。
さて、1876年、日朝修好条規により朝鮮王朝が開国すると、早くも1879年には日本人海女の朝鮮出漁が始まる。
一方、1895年には済州海女も新たな漁場を求めて朝鮮本土に進出。1903年には日本への出稼ぎも始まった。さらに、日本統治時代の1922年、済州=大阪間の直行便〝君が代丸〟の運航が始まると、海女の往来も盛んになった。
こうした中で、済州海女は日本人海女に比べ、低水温に強く、深海や沖でも器具・船なしで操業が可能で、多くの漁獲高が見込めるほか、賃金も安かったため、水産業者はこぞって済州海女と契約するようになり、1929年には日本人海女は朝鮮沿岸からはほぼ駆逐され、済州の海女は遠く大連やウラジオストクなどへも出漁したという。
なお、日本国内では、1920年代になると、風俗取り締まりの観点から、海女に対して、上半身裸ではなく、〝磯シャツ〟の着用を求めるようになった。特に、朝鮮沿岸では、〝大和撫子〟が上半身裸でうろつくのは大日本帝国の沽券にかかわるとして、警察の指導もやかましかったらしい。しかし、現在のように体に密着するウエットスーツのない時代、磯シャツは泳ぎづらく、漁の作業効率が大きく落ちてしまう。これに対して、済州海女はそうした規制の対象外だったことも、漁獲効率という点では彼女たちに軍配が上がる一因となったのかもしれない。
さて、
つづきは本紙へ