◆汚染の原因と発生・拡大のメカニズム解明を◆
ソウルの大気汚染はいまにはじまったことではないが、今年は特に深刻な状態だ。
〝漢江の奇跡〟と呼ばれる経済成長は1960年代後半から始まっていたが、1960年代の輸出振興が軽工業中心だったのに対して、1970年代以降、重化学工業中心の経済政策に転換されたことで、石炭や石油などの化石燃料が大量に消費され、二酸化硫黄などの排出による環境問題が深刻になった。
このため、当時の朴正熙政権は、1971年に公害防止法を大幅に改正し、公害防止のための最小限の命令・強制方式の環境政策が始まった。ただし、この時点では、経済成長が優先されていたこともあって、汚染排出基準はかなり緩やかで保険社会部の行政命令も執行されなかった。
その後、経済成長に伴い、環境汚染がより深刻になったことから、1977年には環境保全法が制定された。同法は、1年余の施行過程での不備を修整・保管して、1979年に改正されるが、このように、環境意識の高まりを反映して、1979年6月には大気汚染の防止を訴える宣伝切手も発行された。
1979年10月に朴正熙大統領は暗殺されたが、環境法の理念は継承され、全斗煥政権発足後の1981年には環境庁が発足する。
しかし、政治的な混乱が続いたこともあり、大気汚染の状況はなかなか改善されず、1977年に27%だった大気汚染による呼吸疾患者は、1983年には43%にまで増加している。
このため、1988年のソウル五輪を控えた政府は、大気汚染改善のため、製油所に脱硫装置を本格的に導入するなどの対策を講じたため、二酸化硫黄による大気汚染は大幅に改善された。
その後、政府による規制は一酸化炭素や二酸化窒素などへも拡大され、工場や発電所等の固定汚染源に由来する大気汚染は改善されたとされる。
この成功を受けて、五輪後の1990年、環境庁は環境処に昇格、さらに1994年には環境部に昇格し、環境法・制度の整備が進められた。しかし、必ずしも厳格な運用が行われているわけではなく、十分な成果を上げているとはいいがたいのが実情だ。
特に、2000年代以降、国民の生活水準向上に伴い、個人所有の自動車が増加したことによる排ガス汚染問題が人工密集地域で悪化。毎年春の
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