7月23日からいよいよ東京五輪が開幕する。というわけで、今回は、前回(1964年)の東京五輪の際の韓国と日本について、見てみよう。
大韓民国成立直前の1948年7月に開幕したロンドン五輪以来、朝鮮戦争中の1952年冬季のオスロ大会を除き、韓国は1960年まで夏・冬の全大会に選手団を派遣してきた。
これに対して、北朝鮮は韓国が出場する大会には参加すべきではないとの大義名分や、朝鮮戦争とその後の戦後復興という国内事情などもあり、五輪にはほぼ無関心の姿勢を取っていたが、メルボルン五輪終了後の1957年、突如、次回(1960年)のローマ五輪に合同選手団による参加を呼びかけた。この提案は、韓国側の拒絶により実現しなかったが、この頃から北朝鮮が統一工作の一環としてスポーツ交流を考えていたことがうかがえる。
ローマ五輪終了後の1962年7月、北朝鮮のオリンピック委員会は1964年の東京五輪への南北単一チームによる参加を再び提案。
1963年5月、南北間で第一回実務者協議が行われたが、合同選手団の名称や、韓国関係者の北朝鮮関係者に対する不信感、選手団選考などで両者の溝が埋まらず、交渉は難航。7月には2度目の会談が行われたが、この席上で韓国側から会談打ち切り通告があり、結局、合同選手団は破談となった。
これを受けて、同年10月、北朝鮮が〝DPRK〟として国際オリンピック委員会(IOC)に正式加盟し、1964年冬季のインスブルック五輪以降、南北は別個に選手団を派遣した。
ところが、東京五輪への北朝鮮への参加に関しては、あらたに〝新興国競技大会(GANEFO)〟問題が発生する。
1962年8月、インドネシア・ジャカルタでの第4回アジア競技大会開催に先立ち、インドネシア当局は、アラブ諸国および中国との連携を重視して、イスラエルおよび台湾選手団に対してビザを発給せず、入国を認めなかった。
これに対して、IOCはじめ各競技の国際組織は、参加資格がある国の参加を認めないことを理由に、第4回アジア大会を正規の競技大会とは認めず、翌1963年4月にはIOCがインドネシアの資格停止(=オリンピック出場停止)を決議。すると、対抗措置としてアラブの12カ国が1964年の東京五輪のボイコットを示唆して、対立が深まった。
このため、1963年4月28日、インドネシアは、ソ連、中国(当時はIOC非加盟)などの社会主義諸国や反イスラエルのアラブ諸国、アフリカの新興独立諸国に呼びかけ、GANEFOを開催すると発表。すると、IOCや各競技の国際組織はGANEFOに出場した選手は五輪参加資格を失うと発表した
。
結局、1963年11月、ジャカルタでGANEFOが開催されたが、中国から有力選手が多数参加して多くのメダルを獲得したのに対して、ソ連をはじめ多くの国は二線級の選手を派遣してお茶を濁していた。
北朝鮮はIOCへの加盟がGANEFOの開催直前だったこともあって、結果的にGANEFOに有力選手を参加させてしまい、多くの選手が五輪への出場禁止の対象となった。
当時の北朝鮮は、最終的にIOCは北朝鮮選手の東京五輪出場を認めると楽観視していたようで、予定通り、東京五輪に参加することを前提に、会期約1カ月前の1964年9月5日、東京五輪の記念切手を発行した。従来、切手に漢字を表示することを避けていた北朝鮮だが、今回は〝東京〟と表記しているのも興味深い。
つづきは本紙へ